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松田聖子唯一の演歌風ムード歌謡は、大まじめに作られた「コミックソング」 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 1993年11月10日にリリースされた「かこわれて、愛jing」。Matsuyakko(まつやっこ)が歌うこのクラシカルで演歌風な曲は、夜の情報番組のエンディングテーマとして作られたものだ。
 意味不明なタイトル、ありがちの演歌風な詩、ムード歌謡的な編曲、そして何よりまるでカラオケで松田聖子が歌っているような演歌風でムーディな歌唱。そして歌っているのは松田聖子ではなく、あくまで「Matsuyakko」。徹底して「ベタ」な作風のこの曲、実は大まじめに作られた松田聖子流コミックソングだったんではなかろうか。つまり、この曲、全部が壮大な「大人のジョーク」なのだ。
 推測になってしまうが、おそらくテレビ局側から聖子側に「こんな風な曲、やってみないか」的な軽い打診があったんではないか。それは面白いと、聖子側スタッフは考えた。どうせやるなら、思い切り「カラオケ」的な曲作りをしてみたらどうなるか。栗尾直樹や小倉良もおもしろがって、曲を作る。ふだんはそんな曲作りはしない人たちが、オレでもできると、演歌風ムード歌謡を作ってみる。聖子自身も、演歌が歌えるから歌ってみましょうということになる。そして、おそらく制作日数は1日か2日くらいで、この曲はできてしまう。
 ここからも推測だが、最初はリリースの予定はなかったのではないか。あくまで歌っているのは「Matsuyakko」。松田聖子ではない。だけど聞きつけたレコード会社の担当者も「どうせなら、レコード化しましょう」となったんではないか。そこでレコード化にあたっては、おもしろ半分ながら徹底して「演歌化」を推進。ジャケット写真の聖子も演歌風に撮影して、カップリングにはカラオケを収納。おまけに、簡単にRIMIXできるもんだから、よりベタなムード色を強めたナイト・クラブ・ミックス・バージョンまで収録した。
 
かこわれて愛jing.jpg

 ここまできたら、もうコミックソング。聴いたとたんに、笑い転げた。そして思った。一頃よりも曲は売れず、すべてを自己プロデュースしていた松田聖子。でも、こんな冗談ソングを作れるなら、精神は健全だな、と。ともすると、多くのアイドルが落ち目になったときに、精神的な破壊に見舞われている。そんな心配は、この人に限って、ないなと。この人の精神力は、やはり強靱だった。

 この曲は、一種の「自虐ネタ」なのだ。つまり、破竹の勢いでヒットを続けてきた松田聖子が、かつての勢いを失っていた時機が、1990年代前半だった。しかし、「迷いながらもきちんと自分の歌を歌ってます、間違っても演歌は歌いません。たとえそれを歌えたとしても。」それを示したのが、この「かこわれて、愛jing」だったのだ。自分の歌として演歌は歌いません、ということをあえてMatsuyakkoが演歌風に歌うことで、逆説的に世に示したのではないか。そう、「人気がなくなってきたから、演歌を歌う、なんてことはありませんから」って、言っているのだ。

 まぁ実際、もし本気で松田聖子が演歌を歌ったら、もっと徹底して歌い込むだろうから、ここまで軽い歌い方にはならないだろう。彼女の声は演歌向きではないかもしれない。しかし、彼女は、80年代初めに演歌を歌っていて、本気で歌うと、かなりな演歌になる。この曲ではまさに聖子が軽くカラオケで歌っているような感覚がある。

 ただ、リリース時期が悪かった。この「かこわれて、愛jing」がリリースされたのが11月10日。その前にリリースされたのが「A Touch of Destiny」で5月21日。「大切なあなた」が4月21日だった。そしてこの後のリリースとなる「もう一度、初めから」が翌1994年5月1日。つまり、約1年間、メインストリームとなる曲のリリースがなかった時期だった。
 この間、半年ぶりにリリースされたこの曲を「コミックソング」と認識できずに、「松田聖子の変節」と受け取ったファンも多かった。この間に、メインストリームとなる楽曲がリリースされていたら、この曲はMatsuyakkoが歌うジョーク曲と正確に認識されていたことだろう。それがこの曲の悲劇だった。そのためか、CD売り上げ的には大して売れなかった。あまりに本気で作ったが故に、そのジョークな部分が、世に伝わらなかったのだ。

 もしかすると、メインストリーム系の曲が1年間ないからと、CBSソニーがその間にこの曲をCD化してしまおうと目論んだのかもしれない。もしそうだとしたら、それが「誤解」を生む原因となったのかもしれない。
 ディスコグラフィーには載っているのに、アルバム収録がなかったのも、この曲が「Matsuyakko」が歌うコミックソングだったからではなかろうか。聖子も制作サイドも、この曲はあくまで「ジョーク」だったのだ。繰り返すが、この曲で松田聖子が何か変わろうとしたことはないと思う。これはファンサービスの一環だったのだろう。

 その後2010年5月に発売された「 Seiko Matsuda Single Collection 30th Anniversary Box~The voice of a Queen~ Limited Edition 」に初めてこのCDがそのまま収録された。この収録は聖子を取り巻く環境や社会情勢が変化した結果だったのだろう。ようするに、この「かこわれて、愛jing」が「まじめな曲」として初めて日の目を見ることになったのだ。
 この曲、聴いてみると、なんかクセになりそうな感覚がある。味わい深いものが存在する。その曲想といい、歌い方といい、「こんな歌、聖子が歌ってもいいよね」って、言える時代になったのだ。また、誰もが歌いやすい曲でもある。それを反映してか、カラオケリストにはほぼ必ずラインアップされていて、カラオケ店では静かな人気を呼んでいるという。
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松田聖子=良きおかあさん、を定着させたリアリティ溢れるテレビドラマ [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 「おかあさん」としての松田聖子が定着したドラマが、よく知られている「たったひとつのたからもの」だ。2004年10月26日に2時間半の単発番組として放送されたこのドラマの中で、聖子はダウン症児を持つ母親・佐藤由美を演じた。このドラマは松田聖子がほぼ11年ぶりにテレビドラマ出演するという話題性も手伝って、視聴率30.1%をたたき出している。

 ドラマでは聖子が秋雪とほんとうの母子のように演じている姿が視聴者の共感を呼んだ。彼女以上の演技ができる女優はたくさんいるだろう。しかし、ドラマ中では、松田聖子は秋雪役のダウン症児と心を通わせることに心血を注ぎ、随所でほんとうの「おかあさん」のように振る舞っている。そこには、「おかあさん」としての聖子の姿が見られる。その過剰ではない、抑制した演技は、このドラマに大きなリアリティをもたらした。

たった一つの宝物.jpg

 ドラマ中に、秋雪が運動会で走る場面が出てくる。この実際の撮影シーンで、秋雪役の子供がハプニングで転んだのだという。その場面は本編でも使われているのだが、あわてて秋雪の元へ駆け寄ろうとする聖子がバックに映っている。このハプニングでは、秋雪役の子供は自力で起き上がって走り出す。聖子はそれを見て手を出すのをやめている。まるで本当の親子のような所作だった。
 聖子はかなり役になりきるようなところがある。この後に作られた「火垂るの墓」でも、その宣伝のために出演した番組で、子役の話になると声を詰まらせて話ができなくなることがあった。演技とは思えないほど上手だった子役とは、精神的に結びついていた面があって、思い出すと涙が出てしまうのだと説明していた。
 このドラマの中でも、こうやって子育てをしたんだろうか、と思わせる箇所が幾つも出てくる。また、夫役の船越英一郎との会話でも、家庭ではこんな風に話すのだろうかと思わせる場面が多数ある。その自然体の演技は、多くの視聴者に訴えかけるものがあったようだ。
 21歳の時、コントで演じた「おかあさん」は、21年後、ドラマ「たったひとつのたからもの」の「おかあさん」役で結実した。

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21歳の「松田聖子おかあさん」がとても様になっていて癒やされるコント [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 21歳の松田聖子がおかあさん役になるというコントがある。1983年前半頃に制作された「積木くずし」のパロディ「けんと聖子の5分間戦争・積木くずれ」である。この中の聖子が、実に様になるというか、かなりな「おかあさん」になっていて、興味深い。
 まず服装が「おかあさん」ぽく地味なんだが、スレンダーでこんなおかあさんがいたらいいなと、率直に思ってしまう。

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 続いて、台所での仕草が、何とも主婦っぽくて、きちんと母親から家事を教わっているように見受けられる。もしかすると、役者デビューしたときにそれなりに練習したのかもしれないが。

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 ともかく、とても「おかあさん」のようで、見ている方は居心地が良くて、癒やされてしまう。これは衣装やセットとの絡みもあって、総合的な「見せ方」の勝利なんだろうが、それにしても雰囲気が良くて思わず見入ってしまう。

 途中で、けん子が初潮を迎えたようなやりとりがある。
 「おかあさん、私、病気みたいなの」
 「病気?どうして?」
 「あのね……」
 けん子が聖子に耳打ちする。
 すると聖子が笑い出し、
 「それは病気じゃないのよ。けん子ちゃんが大人になった証拠なのよ」
 「病気じゃないの?」
 「めでたいわ、早速お赤飯炊かなきゃね、あははは…」
 そしてけん子がトイレに行って、
 「私、痔だったわ。切れ痔…」というオチになる。

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 生っぽいやりとりが続く中で、まるでだめ押しのような
 「…お赤飯炊かなきゃ…」
 の一言は、もう完璧に赤裸々で、おまけに生々しくて苦笑するしかない。よくここまでやりとりしたもんだと感心する。
 しかし、聖子自身も、また事務所サイドも、今から考えればよくOKしたなという内容だと思う。まだ生理用品が今ほどおおっぴらにCMなど打っていなかった時代だったんではないか。そんなときに、コントとはいえ初めて生理になった日のことを言葉に出して言うなんて、勇気があったなと感じる。あの時代の松田聖子の勢いからして、あえてそんな発言は必要のないことだったはずだ。だけど、コントのためにはそんなことも口にするという聖子のおおらかさというか、心の広さには、脱帽してしまう。
 こんなことはそのうちあっけらかんと話す時代が来る、というような先見の明が聖子にはあったのかもしれない。今から見ればとくにどうということはない内容なのだが、まだあの時代では「ブラックジョーク」として受け取られたのかどうだか、わからない。しかし、これをネタにした聖子も関係者も、よくやったと称えられるべきことなのだろう。

 このコントの中で、けん子の部屋が出てくる。グレているので部屋は落書きだらけ。で、その中に大きく「聖子命」という落書きがある。これはわかる。だが、その下、ドア右に小さく、「ひろみ命」という落書きが書かれているのだ。これは言うまでもなく、「郷ひろみ」のことだ。スタッフが書いたんだろうが、その当時聖子が「郷ひろみが好き」だと公言していたとはいえ、それにNGを出さずにそのまま収録したのには驚いてしまう。ある種、それは公然とした事実として世に伝搬させたかったのかもしれない。

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松田聖子殴打事件-精神を病んだ青年は松田聖子を殴り続けた [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 1983年3月28日。沖縄市市営体育館では松田聖子のスプリングコンサートが開催されていた。スプリングコンサートは沖縄市を皮切りに北上して開催する予定となっていた。
 始まって約1時間がたった午後7時40分頃、聖子が「渚のバルコニー」を歌い始めてサビの部分にさしかかったとき、舞台下手から体格の良い男が瞬間的に聖子に駆け寄った。男は持っていた30~40cmのスチール製工具で聖子に殴りかかった。聖子はとっさに頭をかばいながら逃げたが、スチール工具は3回頭に打ち付けられた。男は逃げ回る聖子を追いかけ回した。
 「キャーッ、やめてー」という聖子の叫び声が会場に響いた。警備スタッフが数人駆け寄り、男を羽交い締めにした。会場は騒然となった。聖子はほとんど失神状態で顔面蒼白だった。スタッフに抱えられて会場の外へ運び出され、救急車で病院へ向かった。男はそのまま警備の警察官に傷害の現行犯で引き渡された。(現行犯の場合、警察官でなくとも一般人が逮捕可能である)
 聖子は右側頭部と右手首に約1週間の裂傷と打撲傷を負った。レントゲンやCT検査の結果、骨折や脳内出血はなかったが、体が震え、涙が止まらず、精神的ショックは計り知れず大きかった。その日はそのまま入院した。

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 この様子は当日放送される予定だった「ザ・トップテン」の生中継クルーによって撮影されていた。聖子が男に打ち付けられる画像はニュース等で報道され、視聴者にも衝撃を与えた。

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 犯人は埼玉県に住む聖子ファンの19歳の少年で、精神的な病気で精神科の病院に入院中だった。少年は26日に外泊許可を得て27日に家族と都内に買い物に出かけたという。しかし、その後所持金3万5,000円を持ったまま行方をくらませてしまう。少年はその所持金で航空券を購入し、沖縄まで来て、スチール工具を購入していた。少年は「有名な松田聖子を殴ることで自分も有名になりたかった」と警察で供述したという。
 松田聖子にとっては何も責任がない、100%の災難だった。しかし、ここからの再起がすごかった。スプリングコンサートは休止となったが、わずか8日後の4月5日には熊本のステージに彼女は立っていた。「声が出るかものすごく不安だった」という聖子は、右腕に包帯を巻いたままの痛々しい姿で全曲を歌いきった。
 大方の見方では、その精神的ショックから数ヶ月は再起不能ではないかと見られていた。しかし、彼女はわずか1週間足らずで笑顔を携えてステージに帰ってきた。その精神力の強さには誰もが驚かされた。
 ステージに先立って、記者会見が行われた。ここで聖子は手に包帯を巻いた姿で現れ、笑顔で「もう大丈夫です」と記者団にアピールした。また、加害者をどう思うかと問われると、
 「精神に迷いがあって(事件を)起こしてしまった人を憎むわけにはいかない…」と語った。

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 ものすごく怖かっただろう。当時の警備の手薄さには、驚くしかない。しかし、この恐怖を乗り越えてわずか1週間足らずで現場復帰した聖子は、賞賛に値する。改めていうが、この精神力には脱帽する。また、終始笑顔を絶やさないでいたことにも、ともかく驚く。「笑顔を作っていた」という聖子だが、こんな時まで笑顔でいたことに、ひたすら畏怖の念すら感じてしまうのだ。
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永遠に失われた声質-松田聖子本来の声はもう聴くことができない [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子が歌う曲には、転換点がある。デビューから「夏の扉」までは松田聖子本来の声。しかし、「白いパラソル」くらいから声が出にくくなってしまう。「風立ちぬ」では前述したように喉が荒れて声が思うように出ていない。おそらくテレビ番組などでは「夏の扉」の後半当たりから声が出にくくなっているのではなかろうか。
 この原因は、1981年2月11日から行われた初めての全国縦断コンサートにあった。11月22日までの間に、全国69カ所でコンサートを行った。4日連続でフルコンサートを行った週もあった。この合間に、もちろんテレビ番組の収録や新曲のレコーディング、雑誌の取材や撮影も行われていた。まさに殺人的スケジュールだった。
 年末のレコード大賞の授賞式に出演したとき、「辛かったことは?」と問われた松田聖子は「声が出なくなってしまったことです」と答えて泣いたという。この年の秋にはもう声はガラガラでまともに発声できる状態ではなくなっていた。そしてこれを境に、彼女本来の声質は永遠に失われた。聖子は歌い方の変更を余儀なくされたのだ。
 ここに、1本の動画がある。全国縦断コンサートの一環として、NHKの「レッツゴーヤング」でワンマンショーを開催した時のものだ。NHKホールで行われたこのワンマンショーは8月24日だった。この時歌った「Only My Love」を見ると、彼女は頭から胸まで、汗だくで歌唱しているのがわかる。全身が汗でびっしょりだ。
 しかし、歌い出しから何か苦しげな感じがして、歌の後半になると、声が出なくなってしまう。それでも聖子は懸命に歌っていた。

汗だくで歌うOnly My Love.JPG

 この時期には、もうすでに喉を痛めていたのだろう。それでも一生懸命歌う姿に、胸を打たれた。聖子は後に
 「デビューから数年間は、ただ無我夢中で歌っていました…」
と語っている。おそらくは事務所の方針に従って、言われるがままに歌っていたのだろう。それが喉を痛めてしまう超過密スケジュールであっても、文句なども言わずにただひたすら歌い続けていたのだ。この時の姿を見ると何だかかわいそうになって、涙が出そうになる。
 ここでもし喉を痛めたことを理由に後のスケジュールをキャンセルしていたら、松田聖子の声質はそのまま回復していたかもしれない。しかし、彼女は歌い続けた。その結果、本来の声質を永遠に失ってしまった。もっとも、スケジュールをキャンセルしたらその後の人気がどうなっていたかはわからない。だけれども、松田聖子本来の声質で歌われたその後の楽曲を聴いてみたい気もする。全身全霊をかけて歌い込まれた松田聖子本来の声質の歌を聴いてみたいと思うのは、私だけではないだろう。
 その後彼女はガラガラの低音をハスキーな発声に変えて、高音へと繋ぐ歌唱法を編み出した。いわゆるキャンディボイスである。このキャンディボイスの実態が何なのか、私は歌唱法には詳しくないのではっきりとはわからない。高音部はファルセットであるというのだが、でもほんとうにファルセットなのかという疑問も沸いてしまう。だが、天才と言われる彼女も苦しみながら努力を重ねていたのは間違いない。
 しかし、この歌い方は、聖子に新たな魅力を与えた。ハスキーな低音部から伸びやかな高音まで、自在に変わる声質を獲得した。それがまた大人の雰囲気を醸し出すことに繋がった。
 1985年の結婚で休業したことで、彼女の喉は改善した。休業復帰後の楽曲からは、濃厚でより滑らかな歌い方になっている。しかし、「夏の扉」まで展開されたこの小さな身体からは想像できないような全身から声を出す歌い方は、もう戻っては来なかった。だから魅力がないなどと言うつもりは毛頭ない。彼女の歌い方は今でも素晴らしい。だが、あの全身から声を出すような歌い方は、もう81年初頭までの動画でしか見ることはできないのだ。その意味で、81年初めまでの動画は非常に貴重な存在だといえよう。
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ラジオでは区別が付きにくい松田聖子と神田沙也加 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 ラジオの話題を続けてみよう。松田聖子と娘の神田沙也加は、2011年6月2日に「オールナイトニッポンGOLD」で共演している。共演したのは、これが初めてだった。以降共演していないようなので、これが唯一の母娘ラジオ共演ということになる。
 最初にこの動画を聴いたときに、松田聖子と神田沙也加の区別がほとんど付かなかった。何回か聴いてきたら区別が付くようになったが、それでも高い声質のところではよく聴いていないとどっちがどっちだか正直なところ、わからなくなるときがある。それくらい、二人は似ている。
 松田聖子の方が低域から高域まで広いバンドを持った声で、神田沙也加は周波数スペクトラムが高域に寄った感じの声なので普通に話していると違いはわかる。しかし、笑ったり、やや大きな声になってきて絶叫調になってくると、区別が付きにくくなる。
 神田沙也加は「松田聖子情報管理室」(通称MSJK)の「エージェント」という役柄で出演している。母親の日常を暴露するという役割を負っての登場となった。
 最初に神田沙也加が現れたときに、沙也加が
 「娘でーーす」とおどけながらブースに入ってくると、松田聖子が
 「どうしてあなたが……」とやや呆然とした雰囲気になるのがおかしい。 

松田聖子と神田沙也加.jpg

 ここで垣花アナウンサーが、
 「お二人がテレビで共演するのは時々見かけますが、ラジオで共演するというのは?」とたずねると、
 「初めてです」と聖子と沙也加はほとんど声を揃えて答える。
 これを答えるときに、聖子の声がやや低めになってかすれたような感じになり、松田聖子には「声の表情」があるなと感じる。
 番組内で垣花アナウンサーが「お二人は似てますね」と言うと、聖子、沙也加の順で
 「似てますか?」
 「似てますか?」
と全く同じ答えを返すときには、その感じがあまりに似ていてもう笑ってしまう。
 この中では、松田聖子が20歳の時の1982年11月30日に放送された「オールナイトニッポンスペシャル」のオープニングが流される。松田聖子はこれが流されると知ると「えーっ嫌だな。今日は恥ずかしい」(今日でなければ、恥ずかしくないのかな?)と言って嫌がっていたが、
 「オールナイトニッポンスペシャルを何度もやっていただきましたが、記念すべき第1回の放送がここにあるんです」と垣花アナウンサーが話すと、聖子は、
 「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってください」と言いながら、
 「オールナイトニッポンのパーソナリティをやるということは大変な(役割)だった。だから相当緊張しているはずですよ。たぶん相当なまったりとか、うわずったりとか、していると思います。それをここであえて聴かなければいけないんですね?私。いやー、参りましたな」と語っている。
 オールナイトニッポンスペシャル初回の録音が再生されると、「もういい、もういい…」と何回も言っていた。そして、
 「やはり緊張してますね。でも、成長がないですね。31年たっても、こんな感じではないですか」と言っている。
 これを聴いて神田沙也加は、
 「私の方がうまいなと思いました…」と笑っていた。松田聖子も笑いながら、
 「それはそうですね。」と答えていた。神田沙也加は、
 「良い意味で変わらない明るさというか、そういうところがある」と言うと、聖子は
 「私、けっこう緊張しぃなんですよ。そして、恥ずかしがり屋なんですよ」と言っている。
 会話は進んで、松田聖子が神田沙也加の「流星」のモノマネの一節を披露する。それに対して、神田沙也加は松田聖子が食事の際に沙也加が使ったナプキンを使ってしまったときのことや、ミルクコーヒーをの飲んだときの発言を完全なアニメ声でモノマネする。松田聖子は、
 「ウソ、ウソ」と言って絶叫調の笑いで否定する。
 全編和やかで良き母娘といった感じで、断絶やら疎遠な感じはしない。最近の様子はわからないし、このときも「お仕事」としてやっている面もあるだろうから、割り引いて聴かなければならない部分はあるだろう。しかし、仲むつまじい母娘といった感じに見受けられる。
 親子の間には、いろんなことがあるものだ。仲が悪いように見えて、実はベースでは心が繋がっていたりする。自分に当てはめてみても、そういう感じはする。家族の中のことなんて、しょせん他人にはわからないものだ。この後の事務所離脱ですきま風が吹いていると言われる母娘の中だが、単に忙しいだけなのかもしれないし、その実際はわからない。ましてや、そういう報道に反応しない聖子なら、なおさらそういった内部情報は出てこないだろう。
 いずれにしても、もう5年以上前になるこの番組だが、かなり抱腹絶倒する面白さであることは間違いない。

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松田聖子の原点はラジオ番組だった-今もラジオ番組に積極的に出演する理由 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 1979年11月に日本テレビのドラマ「おだいじに」に登場した松田聖子は、ドラマ上の名前をそのまま芸名にして、翌12月、ニッポン放送の「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」のパンチガールとして起用される。歌手としてデビューできなかったのは事務所の方針で歌手としての活動ができなかったためで、翌年2月にはこの方針が撤回されて彼女は急遽「裸足の季節」でデビューを果たす。
 このラジオ番組「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」は平凡パンチがスポンサードするエロっぽい内容で、かなりきわどいトークなどが売り物だった。聖子は「今日のパンティの色は?」「スリーサイズは?」「肉体関係あるの?」というような問いかけに屈託なく、嫌がらずに答えていた。ちなみに、本人曰く、色は白だった…。

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 松田聖子はこのあと、1981年4月~1983年3月まで「SONY Night Square」で放送された「夢で逢えたら」に出演。さらに1982年11月30日からは「オールナイトニッポンスペシャル」を担当した。

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 これらの番組の中では、松田聖子は飾らない自分をさらけ出していた。かなりのハイトーンで、ものすごい早口。テレビの歌番組で見せる「ぶりっ子」ぶりとは違って、ほとんど「素」の状態で収録や生放送に臨んだ。番組終盤になってからは、ハガキを読むときに落ち着いた感じを醸し出してきていたが、歌番組の時とはまったく異なる雰囲気を見せるラジオ番組は、ファンに「日常の聖子」「隣にいる聖子」を強く印象づけた。また、聖子自身が、このように振る舞うことができるラジオ番組を楽しんでいたようにも見受けられる。
 2005年9月21日、特別番組「全国民放AMラジオ47局統一キャンペーン あなたに伝えたい~言い出せなかった"ありがとう"」キャンペーンの一環として、松田聖子が「AM全局をラジオジャック」という番組が放送された。この番組では、早朝7:50から17:50まで1局当たり10分間、ライン中継や電話などで結んで全AM民放局に松田聖子が飛び入り出演した。

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 47局中45局が生出演で、すべての出演が終了するまでに休憩は9回。昼食の40分以外の8回の休憩では7回までが10分間という過酷なラリーだった。そしてこの厳しい仕事を受けた理由を、彼女はこう述べた。
 「デビュー前からラジオに育てていただいた、ありがとうの気持ちから」
 このデビュー前というのは、あの「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」のことを指している。ともすれば、女性タレントにすれば封印したい過去であるのが一般的なのかもしれない。しかし、聖子はこの「危ない過去番組出演」を隠すことはしなかった。隠すどころか、それに対して「ラジオに育てていただいた」とまで言ったのだ。
 彼女の営業戦略上の発言だったとしても、この発言は見事と言うしかない。これによって、聖子はAM全局からの好感度を一気に高めた。このとき、聖子はAM全局を手中に収めたのだ。とくに古巣のニッポン放送ではこれ以降「オールナイトニッポンGOLD」を不定期でほぼ1年に1回担当、蜜月状態が続いている。
 また、昨年10月からは月に1回「オールナイトニッポンMUSIC10」の担当を始めた。聖子はこの番組ではかつての早口で気軽な言い回しを封印。落ち着いた口調で語りかけるようになった。だが、基本的には饒舌であっけらかんとした部分は随所に出ていて、昔からのファンも古い時代の聖子を思い出せる内容となっている。
 このラジオ番組出演に対して、「神田沙也加との間を復活させるためにラジオ出演するのだ」という記事が出ていたが、それはかなり的外れだ。その程度のことでラジオ番組出演を決めるわけはない。ラジオ出演は言わば松田聖子の原点。ラジオ番組のブースで聴取者と向き合い、能動的に語りかけることに、彼女は楽しみを見いだしている。

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完全休業ではなかった-妊娠中もラジオ番組に出演していた松田聖子 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子は85年の5月から87年の半ばごろまで休業に入ったとされているが、この間にも紅白歌合戦やレコード大賞の授賞式にはテレビ出演している。とくに神田沙也加の出産が86年10月1日であったことから逆算してみると、平均的妊娠期間が266日とすると受精日は1986年1月8日となり、85年の紅白終了直後に妊娠し、86年の紅白に出演できるように出産日を計画的に考えたのではないかと思われる。この計画的出産がうまくいって、聖子は紅白に連続出場を果たす。
 紅白だけでなく、86年年末のレコード大賞でもアルバム「SUPREME」がアルバム大賞を受賞。授賞式に出演した。この間のテレビ出演は6月9日に「さんまのまんま」に出演。さんまがお腹をさすって「男の子」だと予言した。聖子がさんまに「女の子だったらどうされます?」と聞くと、「引き取ります」と答えて笑わせた。おそらくこれ以外の出演はなく、松田聖子は妊娠期間は産休したことになっている。ところが、妊娠中にもかかわらず、実は86年6月半ばから下旬頃に、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」にも出演していたのである。
 この出演は、アルバム「SUPREME」を軸に展開する。ここでこの「SUPREME」について解説しておこう。このアルバムは、86年6月1日に発売された。売り出し直後に売り切れとなり、これが新聞等でも報道されて話題となった。結婚・妊娠があったにもかかわらず、聖子自身最大となるセールスを記録している。

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 「SUPREME」は全編松本隆の作詞で、彼自身がプロデュースを行った。南佳孝、玉置浩二、来生たかおなどのヴォーカリストとしても活躍していた男性アーティストが作曲を手がけており、聖子自身が作曲したナンバーも1曲収録されている。アルバムとしてはニューヨークで収録した前作の「SOUND OF MY HEART」(85年8月15日発売)、松本隆が参加せず、、尾崎亜美、吉田美奈子、矢野顕子らの女性アーティストの楽曲を収録した前々作「The 9th Wave」(85年6月5日発売)に続く作品で、シングルカットされた曲が1曲も収録されていないのが特徴だ。その後紅白でも2回歌われ、コンサートでもスタンダードナンバーとなった「瑠璃色の地球」が収められている。
 このアルバムの制作に関しては、聖子の結婚・妊娠の影響を考えて、そのコンセプトに関して制作陣や聖子自身がかなり悩んだと、聖子が語っている。結局、従来路線を踏襲し、その発展系となるコンセプトを選択した。ジャケット写真も回数を重ねるごとに濃厚になっていった前作までの撮影方針を見直して、原点に返ったシンプルな形式にしたと、番組内で聖子は語っている。
 妊娠期間中に出演した「オールナイトニッポン」では、この「SUPREME」を紹介・宣伝する内容と、主婦である聖子がその適正をテストされるという内容などで進行した。「SUPREME」の紹介では松本隆がインタビューに答え、彼自身の肉声でそのアルバムコンセプトなどを語った。
 また、「主婦度テスト」では、聖子は8問中6問を正解して「普通の主婦」という認定を受けている。この主婦度テストでは、おもしろおかしな問いを聖子が読み上げるとバックでかすかな笑い声が聞こえて、防音ブース以外にもマイクロホンがONとなっていたような感じがする。もしかすると、音の具合から、スタジオではなくて、聖子の自宅などで収録された可能性もある。妊娠中ということを考えると、あり得る話である。また、読み上げるたびにガサガサという答えを書いた紙が擦れあう音が聞こえてきて、質問内容は聖子も初めて接するものだったことがうかがえる。
 この「オールナイトニッポン」は、放送20周年を記念した番組の一環として制作されたものだが、先ほども述べたように、妊娠期間中ということに配慮して、深夜帯の生放送ではなく、あらかじめ録音されていたのかもしれない。聖子は番組中で「お腹の赤ちゃんもびっくりしているかも」「あと5ヶ月で生まれる」などという発言をしている。おそらく、妊娠期間中に出演した番組というのは、「さんまのまんま」とこの「オールナイトニッポン」だけではないかと思われる。また、妊娠期としてはすでに安定期に入っていて、お腹もまだそれほど大きくはなく、出演のタイミングとしてはベストだった。
 語り口調は以前に放送された「松田聖子のオールナイトニッポン」と全く同じで、結婚・妊娠を経ても変わらない「素」な聖子と出会える。終始明るく、夫である神田正輝の話などもしていた。すでに爆発的売れ行きを示していた「SUPREME」を紹介していたので、聖子には一種の安堵感がうかがえ、安心して話している様子がわかる。
 妊娠中も出演していたことで、松田聖子の「ラジオ好き」が実感できる番組となっている。

 何度か書いているが、これらの内容の多くは、現在でも動画サイトにアップされている。ここに書かれている内容から類推して、例えば「松田聖子、オールナイトニッポン、20周年」などと検索するとヒットしてくる可能性がある。
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神田正輝と結婚前最後の生放送終了後、松田聖子を乗せたアウディ80は駒沢通りを突っ走った [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 神田正輝との結婚を控えて、松田聖子は一度休業する。そして最後のテレビ生放送となったのは、1985年4月20日の「8時だよ、全員集合」だった。ここで彼女は休業前のラストシングルとなった「ボーイの季節」を歌う。番組最後に、いかりや長介から「ご婚約おめでとうございます」と言われて、花束を贈られる。彼女は「どうもありがとうございます」と言いながら手を合わせてこれを受け取っている。
 TBSのGスタジオで行われたこの日の収録を終えると、彼女は家路につく。待ち構えていた報道陣が捉えたのは、アウディ80に乗った松田聖子だった。TBSの駐車場から勢いよく飛び出てきたアウディ80には、驚いたことに運転手と松田聖子しか乗っていなかった。マネージャーなどは同乗していない。彼女は後ろ座席の左側に乗っていて、右側には先ほど贈られた花束が置かれていた。報道陣が取り囲むと、彼女は微笑んでいる。
 ここでカメラは松田聖子が乗っているアウディのナンバープレートを映し出す。驚いたことに、モザイク処理はなく、そのまま読み取れる。当時は放映する際にナンバープレートを隠すなんてことはなかったのか。「品川59も5746」という文字がはっきりと読み取れてしまうのだ。

はっきりと映ったナンバープレート.JPG

 当時のアウディ80は「六本木のカローラ」と呼ばれていて、価格は250万円から300万円と、輸入車としては安価だった。よく見ると、松田聖子が乗っている2代目のアウディ80は三角窓がないので、1981年以降のモデルであることがわかる。 おそらくは1.6Lか1.8LのCLEかGLEだろう。
 そしてたぶん、このクルマは所属事務所のサンミュージックが用意したクルマだったのではないか。このアウディ80に、彼女は番組のフィナーレで着ていた服と同じ服装で乗り込んでいた。
 TBSから出たアウディ80は、飛ばし続けるが、いかんせん馬力がない。しかもあまり乱暴な運転をするわけにもいかないし、そこまでする理由もない。駒沢通りを走っていたアウディ80は、すぐに報道陣の車に追いつかれてしまう。交差点で止まっていたアウディ80に、報道陣が「聖子さん、聖子さん」と言って殺到する。
 聖子は前席シートに身を乗り出して、運転手と何事か話している様子。やがて助手席側の窓が全開となって、後ろの席から身を乗り出すようにして、聖子が話す。
 「ここでは何なんで、ウチの近所でお話ししますので。ここは道ですから…すみません」
 きちんと報道陣に対応して、仕切るくらいの力量を身につけていたらしい。

品川59も5746.JPG

 この後、自宅前で緊急の会見が行われる。ここで聖子は、「完全に引退ではなくて、また歌えるようになったら、また歌わせてください、っていうことなんです」と真摯に語っている。そしてこれはそのまま現実となった。ただし、最後のコンサートはこの後大阪城ホールで行われており、ファンの前で歌うのは、この日が最後ではなかった。
 また、聖子は「復帰しても、今までと同じように活動することは不可能だろう」と述べている。
 「だから、今までのような仕事のやり方は終わりです」と言う。
 「休業するのは、聖子さんが決めたのか」という問いには、「そうです」と答えている。
 また、結婚式を行う教会が近くのサレジオ教会に決まったことを記者たちから聞いて、聖子が驚く場面がある。本人が知る前に報道陣にはわかっているっていうのも、当時の報道が過熱していた証拠なんだろう。しかし、そんなに過熱していた状況なのに、帰宅するときに運転手と二人だけで、しかも普通にTBSの駐車場から出てきたのには、かなり驚かされた。おそらく自宅前での会見をするつもりでいたのだろうけれど、何となく牧歌的な雰囲気を感じてしまうのは私だけだろうか。
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「明るさだけでやってきました…」松田聖子の苦悩と悲しみ-2 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 2008年のある番組中に、松田聖子は笑いながらだが、「私は心配性なんだけれど、何か辛いことがあってもそれに引きづられることなく、この辛いことを乗り越えたらまた明日がやってくる、明日はきっと良い日になるというような気持ちでお風呂に入ってさっぱりして、ぐっすり眠るようにしている」と語った。ちなみに、松田聖子はいろいろな番組で「お風呂に入る」というのを一日の区切りやストレス解消法としてあげている無類の「風呂好き」である。
 このとき、「私、こう見えても辛いこともあるんですね。…ハイ」(笑いながら話すと、ここでスタッフから爆笑が起こる)「28年間みなさんに支えられて、皆さんの応援でここまで来ることができました。悪いことばかりではないので、みなさん明るく前向きに考えて頑張っていきましょう」と述べた。でもまぁ、いろいろあったんだろうね。

おんたまでのつらいこと.JPG

 2007年のNHKスペシャル「松田聖子」では、「ここが私の人生で一番辛いポイントとか、ありますか」と問われてこう答えている。
 「松田聖子という存在が一人歩きして、完全に別の『松田聖子』が作られていくというのは、ときどき怖いなあと感じる。(80年代終わり頃の週刊誌報道などもそうだったけれど)私のことを全然知らない人が、私のことをまるで知っているかのように書いたり、されますよね」
 「私はそれに対して1つ1つこれはそうです、これは違います、などと言う術を持っていないし、それをやっても仕方のないことなんです」と語っている。今でもそうだが、彼女は報道に対して一切何も反論しない。また、それに関する論評もしない。

アミノマイルドCM.JPG

 しかし、「松田聖子叩き」が過熱した80年代終わり頃、彼女はレポーターの求めに応じてこれらの報道に対して語っている。1988年か1989年頃と思われるこのインタビューでは、子供の神田沙也加を母親と神田正輝にゆだねて渡米したことに関して、記者から「いろいろとマスコミで報道されたけれど、いったい何がこんな風になってしまった原因だと思うか」と問われて、
 「私の方が何なんでしょうとお聴きしたいくらいなんですけど」と答えた。
 続けて、 「日本をあけていたというのは大きな問題だったとは思いますけれど…」としながらも
 「これは私たち家族や夫婦間で話し合って決めたこと」だと説明している。
 また、神田正輝が10歳年上で、彼がちょうど聖子の歳の時には自分は自由に活動していたので、そういったやりたいことをやらせたいと話したとしている。
 そして、レポーターと思われる女性が、「家庭や夫婦よりも仕事に比重を置いていると思われるが、何かそういう風に生き方を変えようと思ったのか」とたずねると、
 「海外で活動するという大きなチャンスがあった。それは是非やるべきだと彼が言ってくれたこともある。(活動することで)迷惑をかけるとは思うけれど、仕事を持っている一人の人間としてきちんとやりたいと考えて決心した」と答えている。
 また、「生き方というのは、それぞれ個人的に違うものだし、家庭によっても異なるものだ。何が正しいということは、決めつけられないのではないか。でも、家族あっての自分なので、やはり迷惑はかけないようにしたいと思っている。そういう中で仕事をやっているのだが、やる以上はきちんと仕事をしたいし、たくさんのファンの皆さんのためにも、良い音楽を作っていきたい」と語っている。
 そして最後に「ご心配をおかけしたことは申し訳ない気持ちでいっぱいです」と述べている。

1989年頃海外に行ったことに対してインタビューに答える聖子.JPG

 ここで松田聖子が語った内容は、今見るとおかしなことは全くなく、至極まっとうなことばかりだ。なぜこのような内容を鬼の首を取ったように報道したのか。今となっては首を傾げざるを得ない。私は当時の報道には何も興味はなくてこの内容を見聞きすることは全くなかったが、聖子が語るように、あくまで家庭内の問題であるだろうし、そういったチャンスを活かしたいという発想、そしてやるからには手を抜かずにやりたいと思うのは、当然のことのように思える。
 芸能レポーターらしき男性が「お子さんと離れてしまっているでしょ。この辺はどうですか」と聞く段に至っては、当時の芸能レポーターのレベルの低さに慄然となってしまう。こんな程度の者が報道し、またそれに乗せられていた視聴者もどういったもんだろかと思う。
 松田聖子は、おそらく「なんでこんなつまらないことに答えなければいけないのか」という思いでいっぱいだったことだろう。それでもあえて問われれば「お騒がせして申し訳ない」と言いつつ、自分の主義主張を貫いていたことに、ある種の畏敬の念すら抱く。
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