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リトアニア2001年6月 ブログトップ

KGB博物館-4 [リトアニア2001年6月]

しばらく通路から部屋を眺めてみよう。
下は拘禁する拘禁する部屋の扉にも見えるが、おそらく拷問室の扉であろう。中の叫び声などが外に漏れないように、吸音材や防音材がドアに入っている。ドアに付いている窓から、中の様子を確かめたり、食事などを入れたんだろうか。
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こちらの部屋には、シュレッダーで切ったような紙が多量に袋に入っていた。KGB職員は、リトアニアの独立を阻止できなかったため、大慌てでここから逃げ出したという。その際、証拠となる文書類は切り刻んだが、焼いたりする時間はなかったらしい。それがそのままここに保管されている。
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KGB博物館-3 [リトアニア2001年6月]

彼とのツーショット写真は、KGB博物館のすべての順路を一緒に回って入り口まで戻ってきたときに、彼が帰ろうとするところを引き留めて、「一緒に写真に写ってもらってよいですか」と確認して撮影したものだ。もちろん、彼には英語は全く通じない。入り口の係の若い男性が、私の英語をリトアニア語に通訳してくれた。彼は2つ返事で承諾してくれた。
撮影してくれたのは、通訳もしてくれた若い男性職員である。「元・政治犯」の彼は、二言三言、係員らと話すと、挨拶をして帰って行った。
「彼はこのKGB博物館によく来るのか」聞いてみると、不定期に事前連絡なく、ときどき来るのだという。学芸員と雑談し、施設の話などして、帰るのだという。ちなみに彼は博物館員とは何も関係がなく、また運営にも関係していないらしいが、ボランティアのように見学者の後を追って説明することがときどきあったという。
博物館員によれば、「日本人に説明したのは初めてで、あれだけ長いのも初めて」ではないかという。
次は通常の監禁室の内部である。このあたりまで来ても、私は彼が「元・政治犯」だとは気づいていない。ボランティアのおじさんが付いてきて説明してくれているんだろう、という程度の認識でしかなかった。
監禁室の内部と思われる。14年間のことでわすれてしまった…。
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下は取調室のような感じだ。
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KGB博物館-2 [リトアニア2001年6月]

彼は英語ができない。たとえば私たち日本人が「英語が不得手」とは言っても、簡単な単語くらいは話せる。だが、まったく彼には英語が通じない。どれくらい通じないかというと、「ワン、ツー、スリー…」すら通じない。
おじさんのみ.jpg
博物館の係員には英語が通じたので、説明する人が英語が全く通じないのには、最初は驚いた。しかし、彼はまったく言葉を話さないかわりに、身体全体を駆使して、「ここがなんであるか」を説明するのだ。たとえば、この「激狭拘禁室」では、彼は実際にそこに入って、自分の下半身から排泄する様子を表現しながら、「ここでは立ったまま、トイレもいけずに過ごすのだ」と説明してくれる。
それで十分にわかる。まず入ってきた政治犯は、ここでトイレに行くことも許されず、何日間かを過ごす。彼は確か指を数本たてたのではないかと思う。つまり、数日間、ここで過ごす。足を折って過ごすこともできない狭さなので、疲れて足を折ると、そこが圧迫されて鬱血し、足の血の巡りが悪くなる。長くなれば、足を切断することになるかもしれない。
政治犯は、自分の汚物の臭いが充満した部屋で、座ることも許されず、人間性を否定されて抵抗する意思をそがれるのだという。
この部屋から右へ折れて通路が続く。すぐ、右側にあったのが、受付と構内電話交換機の部屋だった。
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その傍らにあった電話装置。古色蒼然とした回転式ダイヤルがいかにもソ連製という感じ。これを見て、1970年代に見たピーターグレイブス主演の「スパイ大作戦」を思い出した。
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KGB博物館-1 [リトアニア2001年6月]

2001年6月に、リトアニアを訪問した。首都ヴィリニュスのほか、カウナスやロシアの飛び地カリーニングラードに接するニダなどに行った。
この当時のデジカメは充電池がすぐになくなってしまって撮影ができなくなってしまったり、自分の大失態でデジカメを落として筐体が歪んでしまったりして、詳細を撮影していなかった。そんなこともあって、Webにはほとんど公開もしないでそのままにしてあった。
最近、知人にこの話をしたら、「2001年当時のリトアニアの写真は、それなりに貴重だから、公開したら?」と言われた。確かに、首都ヴィリニュスですらまともなホテルもなく、一般に観光旅行にはほとんどいけなかったころの写真は、現在とは違う雰囲気があるかもしれない。また、「血の日曜日事件」でソ連から分離独立して10年目のリトアニアには、資本主義国家としての自由な雰囲気が満ちながらも、かつてのソ連支配の陰がいたるところに残っていた。
ここではKGB博物館を採りあげよう。ソ連支配時代に、ソ連KGBのリトアニア本部として使われた建物である。
落としてしまったデジカメは不調で(帰国後にボディを全交換した)、撮影は詳細には行えなかった。
入り口から入って地下に降りていく階段だ。
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ここで写真を撮っていると、係員がとんできた。どうやら写真を撮るなと言っているなと思って、
「写真は撮れないですか」と聞いてみると、
「そんなことはない」と、首を横に振る。
「写真撮影料金を払えば撮影できる。入り口で払ってほしい」という。
金額を聞いてみると、入場料とさして変わらない額ではなかったかと思う。
撮影料を支払って再度階段を降り、左側にある拘禁室を撮影した。
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この部屋は、大人が一人やっと立っていられるだけの広さしかない。
ここを見ていると、写真の「おじさん」が一人、降りてきた。
KGB博物館のおじさん.jpg

このおじさん、私を監視するようにまとわりつく。
「さっき無断で撮影したから、博物館の係の人が付いてくるのかな…」と思った。しかし、なんかラフな格好だし、係の人にしては年配な感じで、なんか雰囲気が違う。
だが、この人が、たいへんな過去を持つ人物であったことが、後にわかる。
彼は、このKGBリトアニア本部に収容されていた「政治犯」だったのだ。
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