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番外編-2 松田聖子が活躍した時代の放送技術、オーディオビデオハード界の背景 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子が活躍した80年代前半は、どんな時代であったのか。ここでは、放送技術と一般家電であるオーディオビデオ製品の流れから、その時代背景を探ってみよう。

(1)1インチVTRの規格統一
 1977年12月にソニーがSMPTEヘリカルスキャン1インチVTRタイプCフォーマット、通称「Cフォーマット」を発売する。1インチVTRにソニーの規格が採用され、事実上の業界標準となった。これ以降、放送界は1インチVTRの導入を加速化する。イニシャルコストも安く、ランニングコストも安価な上、高画質だったCフォーマットは瞬く間に各放送局に導入された。
 松田聖子が登場した1980年には、Cフォーマット1インチVTRは各放送局に導入されていた。現在、録画撮りの音楽番組でも、またライブの音楽番組であっても、それを高画質で再び見られるのは、このCフォーマットの普及があってこそと言える。

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(2)撮像管の進化
 70年代後半、NHKは日立と共同でカメラ用撮像管としてサチコンを開発し、テレビカメラに搭載していた。一方の民放各局は、オランダのフィリップス社が開発したプランビコン管を搭載したテレビカメラを採用していた。プランビコン管は松下電器がフィリップスから技術導入して国内製造を行っていた。
 サチコン管はノイズが少なく、発色も良いという特徴を持っていたが高価だった。一方のプランビコン管は国内製造でより改修され、独特の艶色系の発色をするようになり、ノイズも低減した。プランビコンの特色は独特のコメットテールを引く点にあった。スタジオ照明などの明かりを捉えた際にレインボーのコメットテールを長く引いているのは、プランビコン管である。
 松田聖子が登場した1980年頃には、プランビコンはサチコンを凌駕する性能を持つようになり、CフォーマットVTRと組み合わせてテレビ放送の高画質化に貢献した。やがて80年代半ばになると、ダイオードガンプランビコンの登場で撮像管の画質は頂点に達する。そして90年代後半に撮像体は撮像素子の時代を迎える。
 サチコン、プランビコンともに放送画質の向上に大きく寄与した撮像管だった。

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(3)トリニトロン プロフィールの登場
 1980年にソニーはトリニトロン管のプロフィールを発売する。ソリッドなデザインでオーディオセットとの組み合わせを意識したコンセプトに、業界は騒然となった。それまでトリニトロン管は20インチまでしか製造できず、大型管は無理だと囁かれていた。それが27インチの大型管の登場で、「大型管テレビ+AVライク」なデザインを採用したテレビが業界をリードするようになっていく。
 プロフィールにはチューナとスピーカーは内蔵されていない。別売りのチューナーでは、映像系と音声系を同時に増幅するインターキャリア方式ではなく、別々に増幅するスプリットキャリア方式を採用し、音声からバズ音を追放した。
 プロフィールはテレビの大型化、高画質化、高音質化の先鞭となった。
 また、テレビ放送のステレオ化が実施されたのは意外と遅く、1982年からである。

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(4)ウォークマンの登場
 1979年、初代ウォークマンが登場する。井深氏自らが企画したという異端児は、瞬く間に世を席巻した。以後、ウォークマンはカセットやCD,MDと媒体を変化させながら、世界中に普及することになる。
 ウォークマンの登場により、オーディオは完全に「個」の存在となった。音楽は外へ持ち運べるようになり、どこでも聴けるようになった。自分だけのアイドルが楽しめるようになったのだ。

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(5)CDの登場
 1981年にCDのテスト版が発表された。1982年に50枚のCD発売により、本格的なCD時代を迎える。ランダムアクセスが可能で、S/Nがよく、スリ減りの心配もないCDは、それまでのアナログ盤と置き換わり、オーディオ音源の主流となっていく。

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(6)Hi-Fi VTRの登場
 1983年、家庭用1/2VTRにHi-Fi音声が付くようになった。スイッチングノイズの発生という難点はあったが、従来の音声が長時間録画により極めて狭帯域、低S/Nとなっていたため、上級機に導入されて広く市場に普及した。VTR音声の改善という点では、1983年の登場はやや遅きに失した感があったが、音楽録画の音質向上には大きく貢献した。

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(7)VHSとベータの戦い
 技術背景には直接の関係はないが、1970年代後半にVHSとベータは家庭用VTRで熾烈な競争を繰り広げていた。ベータの劣勢が決定的となったのは1984年。それまでベータ陣営にあった東芝、NEC、サンヨー、ゼネラルなどもVHSの販売に切り換えていく。しかし、3/4インチのUマチック、その後の8ミリVTRなど、ベータマックスと同じUローディングを採用したVTRの画質が優れていたのは明白で、必ずしも技術的優位にある方式がデファクトとなるわけではないという事実を立証した事例となった。
 松田聖子もベータマックスのCMには多数出演したが、すでに孤高の存在となりつつあったベータの劣勢を跳ね返すことはできなかった。

(8)カラーテレビ契約90%(1980年)
 NHKのカラーテレビ契約は1975年に全契約の83%となった。1980年には90%となっている。ちなみに、1977年10月1日にNHK教育放送が全カラー化を達成している。
 1980年になると、2台目、3台目の13~14インチテレビが各家庭に普及し始めた。ダイエーの「BUBU」を皮切りに始まった13~14インチテレビの低価格化がいっそう促進されたためだ。この頃の13~14インチテレビは、4万円から販売されていた。

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 2台目のテレビは、子供部屋や高齢者の部屋に設置された。同時に、テレビを一家で見るという習慣がだんだん薄れていく。子供がアイドル番組を自室で見る、という風景も日常的になっていく。80年代アイドルが活躍する素地は、こんなところにもあった。

 このような放送界、オーディオビデオハード界の時代背景は、松田聖子に限った話ではない。すべてのアイドル歌手や、その他の歌手も、またテレビドラマですらその恩恵に浴したといってよいだろう。しかし、80年代前半を駆け抜けた松田聖子は、このような時代背景を巧みに活用してしたのだと言えはしないか。自分も知らないうちに……。

 この時代背景分析は、極めて独善的なものだ。批判や叱咤する向きも多かろう。しかし、松田聖子という希有な歌手が80年代前半を猛烈な勢いで席巻したとき、こんな背景がそれを後押ししたのではないかと、私は思ってしまうのだ。
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