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「明るさだけでやってきました…」松田聖子の苦悩と悲しみ-1 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 2001年か2002年頃、ザ・ベストテンの復活番組に招かれた松田聖子は、「青い珊瑚礁」を歌う。このとき、歌う前に彼女は注目すべき発言をしていた。
「(「青い珊瑚礁」の時と)変わってないことがあるとしたら、どういうところだと思います?」
とたずねられた聖子は、
「はー、明るいところ…」
と答える。そして、
「明るさだけで乗り越えてきました…」
と笑いながら言う。
「ずいぶんいろいろなことありましたからね、それを乗り越えて」
という黒柳徹子の発言に
「はい」
と聖子は答えた。
 この発言にしばし考え込んでしまった。私が知る限り、トークやインタビューで彼女が「明るさだけでやってきました」という発言をしたのは、聞いたことがない。後にも先にも、「明るさだけでやってきた…」と語ったのは、このときだけだったのではなかろうか。
 おそらくは、80年代の郷ひろみとの交際や沙也加をおいての渡米に関するバッシング報道、神田正輝との離婚やその後の歯医者との電撃結婚と離婚、そして父親の死去など、ここまでの聖子には確かにいろいろなことがあって苦労もしたのだろう。それに関して論ずることはここではしないが、これらのことをひっくるめて、静かな語り口調で「明るさだけで乗り越えてきました」という彼女は、笑ってはいるがその顔にはある種の憂いがにじんでいた。
 遠くさかのぼれば、デビュー後の80年代前半、絶頂期の松田聖子の笑顔も、「明るさ=笑顔」を精一杯演出していたのではないか。そういえば、これとは異なる動画で、聖子は「水が怖い」と言っていた。そのとき、若い歌手らが出演するプールでの番組の過去画像が流れた。そこで彼女が笑っていたので、司会者が「笑っているじゃないの」と問いかけると、聖子は「あそこは笑わないといけないと思って…ともかく笑っていたんです」と答えた。無理をしてでも、ともかく笑っていたのだ。

いろんなことがありました.JPG

 この「明るさだけでやってきました…」という発言は、この動画の中で最も心に残った言葉だった。いろいろとあったことに、松田聖子は苦悩して、傷付いていると感じた。こういうわずかな心の隙間を掘り出してしまうのは、黒柳徹子の話術なのだろうか。おそらくはスルッと聞き流されてしまう一言だろうが、私は妙に気になった。それにしても、聖子のプロ根性はやはりすごいものがある。
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「あ、ごめんなさい」と謝る松田聖子の誠実 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子は生放送の歌でも、数々の失敗をやらかしている。
 84年11月にリリースされた「ハートのイヤリング」をザ・ベストテンで歌ったとき、彼女はセットに放たれていた子犬を踏んでしまい、驚いて歌が崩れてしまった。彼女は「ごめん」というような仕草をしてすぐに歌は元に戻る。しかしこれは、曲とは何の脈絡もないセットで子犬を放った局側の企画じたいに問題があった。松田聖子にはかわいそうな状況だったが、この時の光景は今でも覚えているらしく、印象深かった事件なのだろう。

ハートのイヤリングで犬を踏んだ.JPG


 「SweetMemories」では、一度英語の歌詞部分を一部飛ばしてしまったということがあった。疲れていたんだろうか。具体的には、
Don't kiss me baby we can never be
So don't add more pain
Please don't hurt me again
I have spent so many nights
Thinking of you longing for your touch
I have once loved you so much
の中で、「So don't add more pain」の部分が空白となった。彼女は笑顔でそのまま歌い続けたが、曲の最後に謝っているような仕草が見られる。

SweetMemoriesで歌詞が飛ぶ.JPG


 そして最も大きな間違いをザ・ベストテンで犯してしまう。ニュージーランドでの撮影を終えて帰国した直後に出演したこの番組で、彼女は「ロックンルージュ」を歌う。2番の歌詞で、
防波堤を歩くときジョーク並べて笑わせたの
黙りこむともりあがるムードの波避けるように
君がス・ス・スキだと急にもつれないで
時は逃げないわもっとスローにささやいて
となるところを、
1番の歌詞「ちょっとブルーに目を伏せた」が一緒になって、「もっとブルーにささやいて…」と歌ってしまったのだ。
 これにはさすがに歌いながら途中で気がついて、何回か目をパチクリとしたあと、
「あ、ごめんなさい」と左手を頭に当てながら、歌の途中で謝るのだ。
 非情にもカメラは聖子の顔をアップで捉えている。彼女は「しまった」という感じで右目をつぶってウインク状態になった。ここで歌としては完全に復活しているのだが、さらに彼女はもう一度右目をウインクして自分の失敗を悔やんでいる。その後も歌いながら何回か目をしばたたかせて動揺をあらわにしていた。しかし、動揺もここまで。
「気持ちは YES
横断舗道白いストライプの上」
になると歌も表情も完全に復帰する。しかし、「待ってて PLEASE」というところで、彼女は両目をつぶって失敗を悔やんでいるような仕草をしている。そして「 I WILL FALL IN LOVE」と歌い終わったあとで、もう一度右目をつぶってカメラに向かい、マイクをオフにしてはっきりと口の動きがわかる形で「ごめんなさい」と謝っている。
 さらに曲自体が終わった後、左手で口を覆って「あーやっちゃった」という感じの動きをする。そして左手を頭にやって、困ったような仕草をする。ここで司会者が笑いながら聖子を呼んで、「ニュージーランドにあれだけ長く行っていたから。大丈夫ですよ」と話しかける。聖子は「…すみませんでした」と天を仰ぐ。その後再び左手で頭をかきながら今度は左目をつぶって謝り続けるのだ。

あ、ごめんなさい.JPG

 曲の途中で「あ、ごめんなさい」と謝る姿に、彼女の誠実さを感じた。とっさのことで、ごく自然とそういう動きとなったのだろう。だが、そういうときに人の真実、人となりは見えてくるものだ。この謝る姿に、一種の感動すら覚えた。そして、なによりこの謝る姿が、実に愛くるしかった。
 しかし、「曲の途中で謝らずにそのまま平然と歌い続けるのがプロ」という意見もあるだろう。謝るのは聴取者に対して失礼だという考え方も存在するだろう。そうなんだけれども、ここで何回も「ごめんなさい」と素直に謝った聖子の人間性に、とても暖かいものを感じたのだ。自分がそういう立場に置かれることはないだろうが、そうなったときにとっさに「ごめんなさい」と謝れるか?この場面は、人間・聖子を浮き彫りにした内容として、極めて貴重なものだと思う。
 この動画は、実は私の松田聖子動画収集の動機付けとなった初期の頃のものだった。ここから松田聖子の真実を追いかけてみようと思い立って、80年代動画の収集が始まった。そのきっかけとなったのが、この「あ、ごめんなさい-ロックンルージュ」だったのだ。
 この「あ、ごめんなさい」動画はもう1つの側面も持ち合わせていた。彼女は口パクで歌ってはいない、という事実だった。この頃の歌番組では、一部の歌手に口パク疑惑があった。実際に、口パクだった歌手もあったようだ。とくにレコードと同じ歌唱状態の松田聖子には、根強い口パク疑惑が存在していた。しかし、図らずもこの「歌詞間違え事件」でこの疑惑は見事に払拭された。彼女は、透き通るような高音で実際に楽曲を歌っていたのだ。
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松田聖子のかすれた絶叫は意図したものだったのか [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子はぶりっ子だと言われていた。これは日常の自分よりも可愛い子ぶって歌っていたということからそう呼ばれることになったものだった。しかし、これはアイドルでは当たり前の自己演出で、彼女に限ったことではなかったはずだ。では、なぜ彼女はぶりっ子と呼ばれることになったのか。
 それはたぶん、「日常の自分」を歌以外の場面でたくさん出してしまったからではなかろうか。たとえば、当時のラジオ番組「夢で会えたら」や「オールナイトニッポン」などを聞いてみると、口調や声質がテレビとは違う聖子に会えた。逆に、ラジオでは本音というか、飾らない自分をさらけ出していたのだと言える。そういった無修飾の自分を晒すことに、彼女は躊躇がなかった。こういう聖子に引きつけられたファンも多かったことだろう。
 テレビ番組で歌以外の場面で「いじめられて」発するかすれ声の絶叫は、彼女が自己演出のために意図して発したものではないだろう。おそらくは自然に出してしまった声だったのだと思う。しかし、この自然な絶叫が彼女の魅力を奥深いものにした。
 そういった自分をさらけ出していたとき、彼女には一種の安堵感があったのではなかろうか。自己演出の際のかわい子ぶりっ子と対極となる自然な自分をそのまま出すことで、ぶりっ子となるときの緊張感を解放していたのかもしれない。

ジェットコースター2.JPG

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そのギャップに唖然-聖子が追い込まれたときの絶叫の声質 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子の声質の幅広さにも驚かされた。とくに、追い込まれたときの「絶叫」がハスキーで途切れ途切れになって、なんとも言えず官能的なのだ。普段歌っている伸びやかな高音からは想像できない声質で、落ち着いたしゃべり方になった最近ではほとんど聴くことができない。
 「風立ちぬ」を作曲した大滝詠一が語っているが、その当時は喉の使いすぎで聖子の声は荒れていて、レコーディングの際には気を使ったという。テレビ局やコンサートなどで引っ張りだこだった彼女は、仕事を断ることなどは全くなく、喉が疲弊しながらもともかく歌い続けていたのだろう。事実、デビュー直後の伸びやかな歌声が、この頃になるとやや抑え気味となっている感じもした。それを如実に示したのが、絶叫の際の声質である。
 まずはジェットコースターに乗せられた時の声。これは「白いパラソル」が1位を2回続けた際に、「ご褒美に何が良いですか」と聞かれた聖子が「何か乗り物にのりたい」と回答したことに始まる。次週、3回目の1位となったとき、長崎から帰京する途中で大阪・千里のEXPOLANDからの中継となった。ここからの中継となったのは、この遊園地での売り物だったジェットコースター「スペースサラマンダー」に乗るためだった。このジェットコースターは最初の落下後に直行360度ループを行い、その後らせん状に360度ループを2回行うという、当時としては極めて恐ろしいコースターだった。
 歌い終わった後、このジェットコースターに乗る聖子の様子は何回か復活版ベストテンなどで放送されているが、全部ではない。動画では歌の前のやりとりから歌い終わり、ジェットコースターを降りるまでが完全収録されている。発車後、まず180度ターンで彼女は「きゃー、いやー」という悲鳴を上げる。黒柳徹子が「今の声、聖子さんですよ」と解説するほどの声質なのだが、この後がすごい。
 同乗するアナウンサーが「高さが24mあるそうです」と説明した際には、「は、はい…」と気もそぞろで、目をつぶってはっきりと嫌だという顔をしている。もうほとんど顔はパニックになっている。上っている途中で「これ、どこを持っていればよいんですか?」と言っている時には、かなり目をつぶって「ぁぁー」という声を上げて嫌だという顔を続けている。
 コースターが水平走行に移った時には「あーいやー、あー、こわいよぉ。もーいやー」という声を上げる。この声がもうかすれた絶叫で、もはや途切れ途切れ。意図的に出したものではないだろう。続いて、「怖いよー、落ちるよー」とその絶叫は続く。360度ループの際には、「あー、怖い…」という以外、もう声が出ない。
 1回目の直行360度ループを過ぎた後、次のループに移る前に「もう怖いよう…」とかすれた声で叫ぶ。2度のらせんループではアナウンサーとともに「あーっ」と言うだけ。ループの最後でやはり「こわいよぅ、ぅぅ」と叫んでいた。最後に止まる直前に「んふふぅ」というような吐息のような悲鳴を漏らす。コースターというのは実に計算されていて、これ以上走ると人が限界を超えるという点をわきまえているらしい。おそらく彼女も限界なのではないかという感じで終了となる。
 同乗していたアナウンサーが「大丈夫ですか?」と聞くと、「…もう、怖かった」と笑いながらかすれ気味の声で言うのだが、この声質が実にハスキー。黒柳徹子が「怖かった?と聞くと、少しかすれ気味のハイトーンで「怖いです」と答えている。

ジェットコースター.JPG

 
 この普段の声とのギャップに、かなり笑う。彼女は「もう落ちそうなんです。飛んでるんです。」と言っていた。黒柳徹子が「また乗りたいですか?」と聞くとコースターから降りながら「いやいや、もういいです」で終わりとなる。

 声がほとんど出ていないのは、1982年夏のコント。今でもよくある、箱の中に芸人が入っていて、その中に手を入れるという内容だ。時期から見て、「小麦色のマーメイド」の頃と思われる。ここで手を何回か入れるのだが、その際の悲鳴が途切れ途切れの絶叫になっている。

噛みつかないですか.JPG


 「やーだ、これ何だか暖かいですよ…」と言って箱の中に手を入れるのだが、「はい、両手入れて…」と言われて「やーだこれ、やーだ」と言う声がハイトーンになって、聖子自身が「声が出なくなっちゃう…」と言うのだ。本人も、声が出なくなってしまうことを意識していた発言だ。それからは途切れ途切れのハスキーな声のオンパレード。「だって私の手、舐めるんだもの」「だって今舐めたもの」という声が絶叫になっている。

 ここでも、歌っている時の声とコントの時の声にギャップがあって、そのギャップが実に良い味を出している。もう今では聞くことができなくなってしまったこの絶叫だが、これに痺れた人も多かったのではなかろうか。そしてこれは本人が意図して出していた声質ではないような気がする。

 松田聖子はラジオ番組でも早口で声質が歌っている時とは違っていた。こういった声質や語り口調の違いが、よりいっそうのファン層を取り込んでいったのではないだろうか。
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自分の歌にしてしまった幻のカバー曲-2(松田聖子) [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 幼稚園の頃によく歌ったという曲を披露したのが「天使の誘惑」。黛ジュンのヒット曲だ。あのねのねの軽妙でコント的な紹介で始まるこのファイルは、おそらく1981年頃だろう。もちろんここでも完全に自分の歌にしていて、単なるおつきあいで歌ったという雰囲気は微塵も感じさせない。
 ここで曲紹介の際に、清水国明が「黛さんも草葉の陰で…」と言って、原田伸郎が「まだ死んでおられません」と話した際に、松田聖子が所在なげな顔をしているのが初々しい。

天使の誘惑.JPG


 1980年代の終わり頃に歌ったと思われるのが「津軽海峡冬景色」。きちんと和服を着て、ワンコーラスを歌いきる。暗く陰湿な雰囲気のこの歌が、からっとした「津軽海峡春景色」みたいな感じになるのは、松田聖子が自分の歌にしている証左とも言えるのではなかろうか。しかし、演歌を本気で歌うとこれほどレベルの高いものになるということを示した動画となった。

津軽海峡冬景色.JPG


 テレサテンが歌った「つぐない」はおそらく「ピンクのモーツアルト」と同じ頃と思われるので、84年8月頃だろうか。場所はNHKホールだ。これのまま聴いてしまうと、オリジナルではないかと感じてしまう仕上がりで、ここでも完璧に自分の歌にしている。

つぐない.JPG


 極めつけのカバーが「あなた」だ。時期は1984年秋頃。小坂明子作詞作曲のこの曲を、本人のピアノ伴奏で歌うという豪華版だ。今までこれほど情感を込めた「あなた」は聴いたことがなく、完全にオリジナルを越えている。スローな時のややハスキーな低域部分から、アップテンポの時の伸びやかな高音まで、全領域で圧倒的な歌唱力を見せつける。惜しむらくは最後に彼女が泣いてしまって曲が崩れてしまうことだが、これを郷ひろみと結びつけて瞬間に切り替えるカメラマンとスイッチング室には恐れ入ってしまう。おかげで最後は小坂明子のピアノのクローズアップで終わるところがそうならずに終わってしまったと、後で小坂明子が語っていたそうだ。
 小坂は「きちんと歌えなかったので松田聖子は泣いて最後をごまかした。スターは得だ」というような発言を、この時を振り返る番組で語ったと言うことになっているが、松田聖子は完璧にこの曲を歌いこなしているのがこの動画からは見て取れる。このような仲間内からの中傷も、彼女の才能をうらやむことから発生していると言えそうで、こういった事例は数多いと思われる。
 最後に泣いてしまったのは、郷ひろみを思ってのことではなくて、歌に情感を込め過ぎたせいであると思いたい。また、このように感極まって泣いてしまうのは、彼女にはとても多かった。神田沙也加がいうところの「感動屋さん」と称される所以である。
 この動画は現在も高画質版が動画サイトにアップされていて、拡散している。

あなた.JPG

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自分の歌にしてしまった幻のカバー曲-1(松田聖子) [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子はデビュー直後や80年代初め頃には、カバー曲を歌っている。今ではカバーされることはあっても、人の曲を歌うなんてことは信じられないことだが、かなりの回数歌っている。これはでも、当時の番組プロデューサーやディレクターの気持ちになると、とてもわかる気がする。これだけ歌がうまいなら、松田聖子が歌ったらどうなるか、いろんなジャンルの曲を歌わせてみたいといういたずら心が働くのも当然じゃなかろうか。
 またおそらく彼女も、「歌って欲しい」というオファーに嫌な顔をせずに2つ返事して歌っていたのではないかと思う。それはもちろん自分の実力を示すということはあっただろうけれど、どちらかと言えば心から歌うことが好きだったからではないだろうか。彼女が歌う演歌なんて、POPな感覚で良いと思うけれど、どの曲を聴いてもみな自分の曲にしてしまっているというのがすごい。
 カバー曲を紹介する前に、松田聖子がデビューする前の高校1年の時にカラオケのカセットに吹き込んだという曲がある。友達と遊んでいる時に吹き込んだという話なのだが、そのカセットは叔母さんが所有していたものだという。

デビュー前にカセット吹き込む.JPG


デビュー前集合写真.JPG


 このカセットを紹介する番組はどうやら最低3回はあったようだ。一回は萩本欽一の司会で、本人も登場してそのカセットを聴いている。あとは85年頃のワイドショーで2回ほどあるようだ。吹き込まれている曲は「春一番」「狼なんか怖くない」「哀愁のシンフォニー」などで、やはり十分に上手である。少し舌足らずな感じもするが、もしかするとそれが言われている舌の手術へと繋がっているんだろうか。
 これを聴くと、松田聖子を見いだしたCBSソニーのディレクター若松宗雄氏の気持ちが十分にわかるような気がする。

 最初のカバーは「ダンシングオールナイト」。この曲自体が80年4月に発売だから、歌ったのはそれから数ヶ月後くらいか。どうもお笑い番組の中らしく、愛川欽也が中心にいて、桜田淳子や香坂みゆきなどが一緒にいる。まだマイクロホンの使い方がうまくなくて、ときおりバックの演奏に負けて歌声がかき消されてしまうが、きちんと自分の歌にしている。

ダンシングオールナイト.JPG


 次は1984年の「恋の奴隷」。奥村チヨのヒット曲である。NHKホールだと思われるが、彼女らしいハイトーンが冴えた歌唱で、やはり自分の曲にしてしまっている。この当時だと安定した歌手になっているので、もう他人の曲を歌っても松田聖子は松田聖子としてのアイデンティティが確立している時期になっていただろう。

恋の奴隷.JPG


 どうやら急に、事前の練習なく歌わされたと思われるのが「北国の春」。左にいるのは五木ひろしだ。着ている衣装から推察して「秘密の花園」の頃らしく、そうすると83年の3月頃だろうか。出だしはキーが高すぎてちょっとおかしな感じだったが、すぐに修正して自分の曲にしてしまうのが驚きだ。このあたり、他の歌手からもその実力は一目置かれる存在になっていたのだろう。この娘が演歌を歌ったらどうなるかという興味本位のいたずらに実力ある歌唱力で返している点が注目される。

北国の春.JPG


 ここで紹介するのは、おそらく「げらげら45」(スター取調室)で歌われたと思われる「みちづれ」。「ほんと?」と言いながら歌い出すので、何か急に歌わされることになったのではなかろうか。1981年頃と思われる。この頃だと、まだ聖子がほかの歌を歌えるかというのは、それほど周囲にはわかっていなかったのではなかろうか。ここでも、演歌を演歌らしく歌うという素性の良さはきちんと現れている。あのねのねが少し感心したような顔をしているのが印象的だ。

みちづれ.JPG


 なお、ここで紹介した一連の動画は、まだ動画投稿サイトにアップされている可能性がある。一度消されても、また誰かが投稿するので、閲覧できるかもしれない。
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自虐ネタが映えたコント-批判を自己表現として採り入れる精神風土が松田聖子にはあった [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子はコントやトークのセンスもかなり高かった。当時のサンミュージック社長であった相澤秀禎氏が言うように、今ファンが欲しているものは何かをその場で判断して、それにあった雰囲気作りをすることが上手だった。頭の良さと行動力を併せ持ち、抜群の歌唱力とプロらしい振る舞いとともにその場にあった高度な自己演出力が「松田聖子」という存在を作り出したのは間違いない。その力は、コントにもいかんなく発揮された。
 この頃の番組では、バラエティと言えばコントと歌が合体したような形式が多かった。そんな番組の中で、松田聖子はドリフターズやあのねのね、小松政夫などによくいじられていた。
 コントでは、よく「自虐ネタ」のようなものを演じている。本人からではなく、それは志村けんやあのねのねからの突っ込みがほとんどだったが、それがその場のアドリブであろうと、本人は、はにかみながらもニコニコしてそれに答えていた。またそうやってほとんど平然で答えることが、次の突っ込みへと繋がっていったのだろう。
 ここでは3つの事例をあげておこう。
 まずは松田聖子のものまねを一般視聴者が行うという番組。司会はあのねのねだ。ここで彼女はあのねのねの原田伸郎の求めに応じてCM「カプリソーネ」の一節を披露する。いかにも「かわいい」という露骨な感じで。これが終わった後で「自分でもぶりっこだと思います?」とたずねられると、少し間を置いて苦笑しながら、聖子は「はい、そうですね」と答えるのだ。場内は大爆笑になる。

ぶりっこだと思う.JPG


 当時のぶりっこは、かわいこぶっている、ということからきた言葉で、別に彼女に限ったことではなかったのだが、今から考えると聖子にとっては勲章のようなものだった。これを逆手に取った返しで、そのコミュニケーション能力の高さを示す事例となった。そして「ぶりっこ」という言葉は、これ以降ほとんどジョークでしかなくなってしまったのだ。
 
 次は「全員集合」の一場面で、志村けん演じる父親と聖子演じる娘とのやりとり。恋する男の元へ走ろうとする聖子が、父親を演じる志村けんからぶたれて泣き崩れる。このとき、志村けんが言うのだ。
 「その悪いクセ、治せ。泣くときには、ちゃんと涙を流せ」
 これにはさすがに聖子も「え、そこまで言うの?」という複雑な顔をした。だが、
「あっは」と言った後で、小さく「…はぃ-」と言って、手を口に当てて笑い流していた。会場は当然、笑いに包まれる。

ちゃんと涙流せ.JPG

 
 その時代を知らなかった人に説明しておくと、聖子は賞を取ったときに、「涙を流さずに泣いた…」いわゆる「空泣き」で漫才ネタとなってからかいの対象となっていた。各テレビ局が賞を設けるような時代だったから、いちいち各賞の受賞で涙なんか流していられないという下地はあったとは思う。ただ、松田聖子は神田沙也加に言わせると「感動屋さん」で、すぐに泣くのだという。そういう傾向はあって、80年代の生放送でも何かとよく泣いていた。それが空泣きであったとは画像から判断して到底思えない。
 もしかすると、「青い珊瑚礁」が初めて1位になったときに号泣して曲がまともに歌えなかったことを反省して、その後はむしろ泣かないように注意していたのかもしれない。プロ根性が徹底した彼女なら、そういったことも十分に考えられよう。 

 今回の最後は、志村けんとの「ドリフ大爆笑」でのコント。恋人同士を演じる志村けんと松田聖子が公園のベンチに座っている。とつぜん聖子が泣き崩れて、理不尽な理由で泣いた理由を、ああだ、こうだと説明するのだが、最後には志村けんが泣き崩れて、聖子の胸を指さしながらその理由をこう言い放つ。
 「だって、胸がぜんぜんない」
 松田聖子の胸が貧乳であるということをことあるごとにドリフやあのねのねはいじっていた。コントの台本にも書かれているくらいだから、本人も納得のうえのことだったんだろう。ある意味で見事な自虐ネタである。

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 2007年のNHKスペシャル「松田聖子」で、次のようなナレーションがあった。「1994年頃、彼女の行動が世間を驚かせます。報道を逆手に取ったCMに次々と出演したのです…」
 これは別に、そのとき始まったものではなかったと思う。すでにデビュー直後から、そのような「自虐ネタ」「反骨精神」の素地はあったのだ。世間の批判や冷やかし、からかいなどを自己表現として採り入れてしまうという精神土壌は、コントで培われたものだったのかもしれない。
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松田聖子は父親が2番目に怖い?一番こわいのは…… [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 父親が登場するトークが、もう1つある。「瞳はダイヤモンド」の話題が出ていて、セットがこたつになっているので、時期は1983年12月頃だろうか。舞台は「欣ドン」だ。ここで、欣ドン一家に招かれる形で来訪した松田聖子が質問に答えている。好きな曲ベスト3は?、好きな食べ物ベスト3は?と聞かれて、最後に「怖いものベスト3は?」とたずねられる。
 このとき松田聖子は、3位が地震で、2位が父親、1位が「なんと言っても週刊誌」だと答えている。答える際には、「父親はやっぱり怖いですね」と語り、「けっこうね、うるさいんですよ」とちょっと顔をしかめながら片目をつぶって世間話をするように話している。蛇足だが、右側の片目をつぶって話すのは彼女は得意で、歌うときや失敗したときにもよく右側の目をつぶって完璧なウインク状態になっている。左目を引き込まない完璧なウインク状態は最初から彼女はできていたのだと思われる。
 こうやって父親がうるさいと顔をしかめて語った後、「あ、見てるから…」と言って正面のカメラに向かってわざと笑顔を作って父親の機嫌を取るように笑いかけている。ここで萩本欽一が
 「僕もお父さんにあったことあるけど、おとなしそうな人だったよ…」と言うと、聖子は
「あはははー、そうですねー」と言って笑い転げる。彼女は萩本欽一が父親に会ったことがあったのを忘れていたようだった。ということは、何か萩本欽一が出ている別の番組に、父親と一緒に聖子は出演していたんだろう。それがなんであったのかは判明していない。

お父さんが怖い.JPG


 萩本欽一は「そうだよー。」と言う。聖子は「そうなんですよ、人前では、良いんですよ」
 萩本欽一はさらに「なんだか優しそうなお父さんよ。お父さんとは、あんまり会わないでしょ?」
 聖子は「そうですね。夜中に帰りますでしょ、そうすると階段の上り方が悪いって言うんです」
 萩本欽一「それ、どういう言い方なの?(優しいのか、怒ったように言うのか)」
 聖子は身振りを交えながら真顔で、「も-、階段上ると○×■□?※○×■□?※○×■□?※」と、久留米弁で父親が怒る様子をトレースする。萩本欽一は「何だかわかんねぇや」でこの部分のやりとりは終了する。
 この当時、父・孜氏は厚生労働省の外郭団体に勤務し、東京へ勤務地が変わっていて彼女と一緒に住んでいたのではないかと思われる。「思ったら後には引かない性格」だと自ら語る聖子だが、父親には頭が上がらなかったようだ。
 この後のやりとりで聖子は「1番怖いのは、やっぱり週刊誌ですね」と答えている。このときの言い方があえて声を低くして断定的に語っていること、そして「週刊誌」と語った後に会場内から同意の笑いが起きていることなどから、その当時の週刊誌のスキャンダル報道が過熱していた状況が垣間見られる。
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松田聖子の芸能界入りに大反対だった父親が登場するテレビ番組 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子のデビューのきっかけは「ミスセブンティーンコンテスト」であったことはよく知られている。彼女はこのコンテストで優勝するが、父親の大反対と学則によって全国大会出場をあきらめる。その後、全国大会から1か月ほどたったある日、CBSソニーのディレクターだった若松宗雄氏からの電話によって、彼女は見いだされることになる。この間のいきさつは、またどこかで改めて書くことにしよう。ここではその大反対だった父親・蒲池孜氏が登場する動画を取り上げてみたい。
 1980年11月に放送されたおそらくフジテレビ系の番組では、久留米の実家を坂本九がたずねている。ちなみに、坂本九はこの後1985年8月12日の日航123便墜落で死去している。番組では孜氏のほか、母親の一子氏と叔母らしき人も映っている。

聖子自宅.JPG


 1980年11月の収録ということは、「青い珊瑚礁」の大ヒット直後で、「風は秋色」が出た直後ということになる。蒲池家の廊下を開放して撮影されたと見られる収録では、廊下に一子さんの手料理と思われる品々が並んでいる。このとき、坂本九が「ぶたれたんだって?」というような質問をしているのに対して、聖子が「芸能界に入るというときに…」と答える。
 これに引き続いて孜氏が、「あんまりだめだだめだと言っても、あのね、言うこときかないでしょう」と発言した。これを聴きながら彼女は、ちょっとはにかんだような苦笑いみたいな顔になった。孜氏は続ける。「だから、1回くらい殴られたかなぁ」「ダメだよってこう…」
 坂本九が聞く。「どこ殴ったんですか?」
 孜氏「ほっぺたを…」と言いながら手を上げて見せた。この発言を受けて、彼女は左ほほを押さえながら「もう、ふっとんじゃって…」と笑いながら言う。
 孜氏は「…つい力が入ってしまって」と言う。
 坂本九は松田聖子に、「覚えていますか?」と聞くと、彼女は「はい、覚えてますね、あのときね」と笑いながら答えた。
 坂本九は「これはダメだな、と思わなかった?」と聞くと、彼女は「いや、もうなんとかと思いました」とかなり笑いながら答えている。この間、一子氏は何も言わずに黙ってこのやりとりを聞いていた。
 この動画はわずか35秒ほどのものだ。

 これに先立つ9/18の「ザ・ベストテン」で、「青い珊瑚礁」が初めて1位となったとき、あの有名な「おかあさ~ん」と呼びかける場面がある。RKB毎日放送の玄関前にかけつけた母親の姿を見て、松田聖子が泣きながら2回そう呼んだのだ。この場面はその後の「ザ・ベストテン」の復活番組や思い出の名場面集などで放送されているが、この「おかあさ~ん」の後に、仕事で忙しかった父親と電話で対談した場面はほとんど放送されていない。
 電話口に出た孜氏は、「もしもし…」という聖子の問いかけに、「法子ちゃん。よかったね。よかったよかった。あのね、法子ちゃん、そんなに泣かなくてよいんじゃない。嬉しいことなんだから。いいね」と答えた。続いて、
 「今日はお母さんと一緒にそこに行きたかったけど、どうしても仕事の都合で行けなかったわけ。それで今ね、あなたが出るところを見ようと思っていたら、あなたが1位になったでしょ。もうお父さんも嬉しくてね、もうよかったね。」と言っている。さらに、
 「今ね、あなたと一緒に、去年ちょうど1年前かな、あなたと一緒に新宿でアイスクリーム食べたでしょ。あのときあなたが泣き出したから、お父さん法子ちゃんを一緒に連れて帰ろうかって言ったら、あなたが絶対頑張るんだって言うから…」ここで曲が始まり、父親との電話が終わる。聖子は「うわー」と泣き出してしまって、曲もボロボロだった。でも、泣くよね、あの場面では、ふつーの18歳なら。

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 このときの新宿での父娘の会話は、CBSソニーの若松氏も「証言」している。1999年頃の古舘伊知郎がMCを務める番組に松田聖子が出演したときのことだ。このとき、若松宗雄氏からの手紙を古舘伊知郎が読み上げている。ちなみに、このときすでに孜氏は逝去されている(1998年没)。
 「思い起こせばあなたとの出会いは20年も前のことになりますよね。当時CBSソニーのディレクターだった私は、ミスセブンティーンというオーディションに送られてきたテープをチェックしていました。全国大会出場予定の何十人というテープを聴く中で、たいへんショックを受ける歌にぶつかったのです。」
 「それはまるで夏の終わりの嵐が過ぎた後、どこまでも突き抜けた晴れやかな青空を見たときのような衝撃でした。それは九州大会で優勝した蒲池法子、あなたが歌った『気まぐれヴィーナス』でした。これは絶対行ける、そんな直感が強烈な勢いで全身をかけ抜けたことをよく覚えています。」
 
若松氏からの手紙.JPG


 「ところが、すでにあなたは学校の規則とお父さんの反対により九州地区代表を辞退した後でした。どうしても気になり、諦めきれなかった私は、結局久留米まで出かけていって、あなたに会うことにしました。当日、ダークブルーのワンピースで現れたあなたは、非常に清楚で品があり、大切に育てられた良家のお嬢様という印象でした。」
 「なんとしても歌いたい、と話すあなたの熱意に触れて、なんとしてもデビューさせるぞと、私自身の気持ちも堅く固まりました。そしてこのとき、先日の直感は確信へと変わっていったのです。それからは芸能界入りに大反対のお父さんとあなたとの、長く厳しい葛藤の日々でしたね。」
中略
 「あなたが上京してきた日のことをよく覚えています。福岡から飛行機で来るあなたを出迎えに羽田空港まで行くと、お父さんに付き添われてピンク色のビニール傘と、小さなミカン箱を手に、心許なげに佇むあなたがいました。あこがれの世界に飛び込む歓びはつかの間、見ず知らずの土地での先の見えぬ将来に不安があふれていたのでしょう。」
 「事務所などへの挨拶を終えてお父さんが久留米へ帰る時間が近づくと、新宿の喫茶店であなたはシクシクシクシク泣き出しましたね。お父さんが見かねて『一緒に帰るか』とあなたにたずねると、あなたは涙をボロボロこぼしながらも、『帰りません』と小さく答えました。親子の別れの辛さと切なさに、私は言葉をなくして、ただ二人を見守ることしかできませんでした。あの日の風景は、一生忘れることはできないでしょう」
 「それから私は、東京の親代わりとしてあなたと深くかかわるようになりました。厳しいことも言いましたが、あなたはいつも本気で正面からぶつかってきてくれましたね。松田聖子とかかわり、プロデュースした10年間という年月は、とても深く密度の濃い充実した時間だったのです。昨年お父さんが他界され、あなたの人生もまた新たな時を迎えているように思います。色々なことがあるでしょうが、初心を忘れずに、その豊かな才能をこれからも伸ばし続けていって欲しいと願っています。それが最愛のお父さんへのなによりの親孝行となるでしょう。そのうちまた食事にでもいきましょう。よりいっそうのご活躍を心からお祈りいたします」
 古舘伊知郎は読み終わって「実感と情感あふれる手紙でしたね」と述べている。また松田聖子は手紙の途中からはっきりとわかる大粒の涙を流し、ほおに伝わるその涙を拭こうとはしなかった。この手紙から、新宿の喫茶店で父・孜氏、若松宗雄氏と同席し、彼女は泣いていたことが明らかになった。またそのとき孜氏は「一緒に帰るか」と声をかけ、彼女は「帰りません」と答えたこともわかった。
 父・孜氏との数少ないエピソードの中でたいへん印象に残る逸話である。

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’80年代の動画が多数ネット上に登場したわけ [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 2000年頃から、ネット上には動画が登場するようになる。ADSLや光回線の普及に伴って、その数は増していく。私もとくに集中したわけではなく、ファイル交換や動画サイトを通して松田聖子の関連動画の収集を始めた。その具体的手法に関しては、あえて言及しないことにしておこう。
 私の見たこともない’80年代の彼女は、新鮮で驚きだった。ともかく歌がうまい。どの動画を見ても、歌がうまいし、声量がすごい。しかも、彼女なりに一生懸命歌っている。この事実を知らずに’80年代を過ごしてきた自分がどうしようもなく残念に感じた。
 また、人には歴史があると言うが、彼女も実に多くの出来事を経験している。デビューから怒濤のように駆け抜けた5年間で結婚して一時休業。出産後すぐに復帰し、その後渡米。激しい非難を浴びたらしいが、いわゆるスキャンダルの宝庫だったと言える。デビューの経緯なども再三取り上げられているが、そういった流れを追いかけられるような「事件」関連の動画も何点かアップされている。
 動画はかなりぼけぼけの画質もあったり、明らかにスキューひずみが出ていたりする動画もあったが、やたらと高画質な動画もあって驚いた。コントラストも彩度も高くて、おまけにジッタやスキューひずみがない動画があって、しかも地上波を受けた形跡であるゴーストも出ていない。非常に電界強度の強い地域で受信した画像と思われた。この高画質動画は通常のVHSの標準モードやβⅡのレベルではなく、おそらくはβⅠかUマチックではないかと思われた。
 このような古い貴重な動画を保存していたアップ主様にはただただ感謝申し上げるしかない。

 ’80年代の動画が多く保存されている理由を少し考えてみよう。まず、家庭用VTRの急速な普及がある。普及が本格化したのは1979年頃から。松田聖子のデビューは1980年4月である。そして、いわゆる「アイドル系番組」がとても多かったことがある。NHKは「レッツゴーヤング」、日本テレビは「トップテン」、TBSは「ザ・ベストテン」、フジテレビは「夜のヒットスタジオ」、テレビ朝日は「ゲラゲラ45」「徹子の部屋」「欽ドン」など、テレビ東京(東京12チャンネル)は「ヤンヤン歌うスタジオ」が放送され、まさに歌番組全盛時代だった。そして彼女はそれらの番組に満遍なく、かなりの頻度で登場した。
 それと、いわゆるワイドショーでも芸能ネタを多く放送した。今のような時事関連ニュースはほとんどなく、下世話な芸能ネタを多く放送していた。芸能レポーターなる者が幅をきかせていた時代だった。こういった背景があって、アイドルの王者だった松田聖子の露出度はそうとう高かったと思われる。戦後の週刊誌で取り上げられた回数は彼女が一番だというが、いわゆるワイドショー関連で登場した回数も、数えてみればトップに近いのではないだろうか。
 さて、こういった動画を丹念に拾い集めて、じっくりと見てみると、どういった松田聖子像が浮かび上がるのか。次回からは、ちょっと変わった側面から松田聖子を分析してみよう。ただ、私も一応は彼女のファンなので、好意的な解釈にバイアスが振れているということは、あると思うが。
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