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貼り直しが効いて気泡が出ない日本製液晶保護フィルム [その他]

iBUUFFLOの日本製液晶保護フィルムは優秀だ。
故障で新端末に移行したとき、液晶保護フイルムで実はてこずった。ソフトケースに付いていた「おまけ」の液晶保護フィルムがあったので、それを新端末に貼ったのだが、ずれるし気泡がとれないし、数回試みてあきらめて廃棄した。
旧端末に使っていたのは、日本製の高価な液晶保護フィルムで、以下の特徴が謳われていた。

①反射防止。指滑り滑らか。
②シリコンコートで指紋防止。
③消える気泡。
④超反射防止。
⑤貼り直し可能。
⑥貼りやすい。位置合わせ簡単。

貼り直し可能、とあって、、「洗えばまた粘着力回復」ということなので、だめもとで中性洗剤を使って洗って、きれいに乾かして貼ったら、見事に貼り直しできた。気泡もない。
安物の液晶保護フィルムで苦労するより、高価でも日本製液晶保護フィルムのほうが断然良いと感じた。


おサイフケータイの復旧状況 [その他]

お財布ケータイもかなり復旧した。
私は前払い式はケータイに入れていない。決済用は後払いのiDとQuickPayだ。
旧端末が故障したため、「預け入れ」ができなかった。ところが、翌日故障機が一時復活したのでQuckPayは預け入れを行ったら、移行は瞬時に済んで新端末で使えるようになった。
IDはドコモショップで「使用停止」になったので、預け入れが行えなかった。故障機が復旧しても、アクセスできなくなっていた。移行が済んだのは5日後。「データの用意ができました」というメールが来たのは6日後。端末のリストアが済むのを待っているのかもしれない。
IDの移行は「IDアプリ」を起動してカード番号とカード暗証番号を入れるだけ。瞬時に終了する。「カード情報確認」で番号と使用期限が表示されていればOKだ。一連の操作は携帯電話のネットワークで行う必要がある。パケット代もかかる。今回のリストア作業はWi-Fiと携帯ネットワークを切り替えながら行ったが、携帯ネットワークの通信量は500MB程度かかった。
決済系ではないが、マクドナルドのFiLicaは、メールを空送信するだけで設定が完了した。これでクーポンが使える。ヤマダ電機のFiLicaは店舗に出向かないと設定できない。
機種変更はまことに大仕事である。しかもそれが覚悟していない時に訪れる故障に起因するなら、負担感はより大きい。

スマホのブラウザはブックマーク管理がきわめてプア [その他]

結論から述べたい。アンドロイド標準のブラウザはとてつもなくタコだ。
新端末へのデータ移行作業をしていたときのこと。電話帳、メール、スケジュールはみごとに、難なく戻った。ドコモクラウドと、SDカードに二重にバックアップしていたが、ドコモクラウドの方が新しいデータだったので、そちらからとくにリカバリーなど意識しないで戻すことができた。
で、ブックマークを見てみたら、なんと1200も入っている。しかも、フォルダ構造が復元されないので、ただURLが羅列されているだけで、使いにくいことこの上ない。だいたい、旧端末では60くらいしかブックマークしていないはずなのに、何でこんなにURLが出てきてしまったのか…。
旧端末を調べてみたら、PCからインポートしたブックマークらしいデータが残っていた。どうやら、PCでChromeを使ったときにFireFoxのURLをインポートしたのだが、それが「同期」して旧端末に記録されていたらしい。それに気がつかなかったというか、たいしたことと思わなかった自分が悪いのではあるけれど…。
さらに悲劇的なことに、この標準ブラウザ、ブックマークの一括削除ができないのだ。様々な資料を調べてみたのだけれど、一括削除も編集もできない。延々と一つずつ、削除してするしかないようなのだ。
ったく、なんてブラウザだ、こんな使いにくいのをよく放置しているなと舌打ちしつつ、ブックマーク管理ソフトなどを端末にインストールしてインポート、エクスポートで削除を試みたけれど、うまくいかず、削除できない。
最後にとった方法は、バックアップデータから戻すときには「上書き」されるという機能を活かすこと。旧端末ではフォルダこと削除ができるので、不要なPC用URLをフォルダごと削除していった。5個ほど削除できず残ったが、1000個以上残るよりはマシ。
この状態でSDカードにバックアップし、SDカードから新端末へデータ復旧した。データは上書きされるので、必要なデータだけが残った。結果的には、PCデータは削除される形となり、スマホ用のデータだけが移行されることになった。しかし、前述のようにフォルダ構造は復元されないので、標準ブラウザでのブックマーク管理は使用しないことにして、BookmarkFolderで管理することにした。ChromeでもブックマークはPCと同期させないと編集できないようだし、スマホではブックマークは意外と鬼門なようだ。
スマホとPCは別個の扱いで、データを同期して使うつもりがない自分のような活用力の低い人間には、余計なお世話機能がけっこうあるみたいだ。

「ケータイ補償 お届けサービス」はリビルド品か新品か? [その他]

「ケータイ補償 お届けサービス」の新端末は翌朝9時過ぎには届いた。いつもながら、迅速。初期設定とデータ移行の仕方を説明した小冊子が付属して、以前よりも充実した印象。とくに、お財布ケータイ移行の仕方が詳しくなっていた。

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端末も、新品にしか見えない。「ケータイ補償 お届けサービス」の説明では、故障などで返却された個体を検査し、基板に問題があれば修理、外装をすべて交換して新造ラインと同じチェックをした「リビルド品」とある。しかし、過去2回ガラケーでこのサービスを使った経験があるが、その際はシリアルNo.が故障機よりも新しかったりして、「これは新品ではないか」と思ったことがある。
なぜそう思ったかというと、交換用端末を用意する義務は各メーカーが負っているわけだが、それに対応した個体は、新品でも何ら問題はない。メーカーとしては、「ケータイ補償 お届けサービス」用の予備端末はある程度用意している可能性があると思うのだ。なぜかというと、リビルドするよりも、ラインで新品が流れている間に予備用を作ってしまう方がコストは安いだろうと思うからだ。
予備端末がなくなってしまったら、「修理品のリビルド」でモノを供給しなければならなくなるだろうが、ある一定数までは、新品で対応しているのではないだろうか。で、この「ケータイ補償 お届けサービス」で送られてきたF-01Fだが、製造番号は故障端末より製造番号が大きいかった。だから新しいと判断はできないが、OSも最新の4.4.2に変更されていた。
私が故障した端末を買ったのは新発売となった10日後くらいなので、初期モデルといえる。新端末は製造番号は大きいし、今年2月に実施された4.4.2へのバージョンアップに対応したOSが入っているので、新品のような気もするが、製造は2014年春には終了しているから、新品と断定する根拠には乏しい。
もしかすると、4.2.2だった新品予備品を出荷前に4.4.2へアップしたということもあり得るが、急いで出荷しなければならない受付日にOSのアップデートをしているというのも考えにくい。結局、新品なのかリビルド品なのか、わからない。…わかっても仕方がないとは思うけれど。

リビルド品に関してはPCパーツでも多く経験しているし、クルマのパーツ交換などでは日常的に行われているので、自分にはまったく抵抗感はない。この新端末も6ヶ月の保証が付く(新品でも保証は1年)し、1年たてばまた「ケータイ補償 お届けサービス」が使えるので、使うことに不安感は抱いていない。
携帯メーカーの再生技術は高品質だろうと思うけれど、「リビルド品」とドコモが言っているのは、もし新品予備端末がなくなったときにはそういうこともあるという「保険」なんではないだろうか?

スマホが再起動繰り返す故障で「ケータイ補償 お届けサービス」を使う [その他]

9/22朝、起きてスマホF-01Fを起動したら、ホーム画面を10秒ほど表示するとシャットダウンし、また再起動するという動作を繰り返すようになった。昨晩寝る前に落とすまでは、何ら異常はなかった。電源を落としても、また勝手に再起動してくる。
SIMカードとSDメモリカードを抜いて起動してみたら、やっぱりダメ。ドコモのサポートに固定電話から電話して聞いてみたが、セーフモードでも起動もできず、20分以上いじってみて「やはりハードの故障」となった。
そうなると、レガシー携帯時代に過去2度利用したことがあるが、「ケータイ補償 お届けサービス」に加入しているのでそれを利用しようかと思った。しかし、オペレータの人は、「5000円かかるし、購入3年以内の自然故障だと無償修理もできるので、ともかく一度ドコモショップに行ってみて欲しい」という。まだ10時前だったので、マイドコモショップまで行くことにした。
10時半頃にドコモショップに着くと、混んでいた。故障の受付は3番目だったのに、1時間以上待つという。2つの故障窓口には年配の夫婦と中年の夫婦が座っていて、結局この人たちが終わるのに2時間近くかかっていた。聞いてみると、プラン変更も一緒にやっていたりと、必ずしも故障対応だけではなかったみたいだが、どうも故障の内容やサービス内容を理解していないようで、窓口が説明するのが大変なようだ。私はすでに故障がわかっていたし、相談する内容も決まっていたので、15分かからなかったと思う。
スマホは持って行く間も再起動を繰り返し続け、筐体はかなり熱くなっていた。電池の消耗も早い。「再起動を切り返していて、すでにドコモの故障確認はしている」と告げると、瞬足で「故障認定」。あとは、
①ドコモショップへ修理に出す
②「ケータイ補償 お届けサービス」
のどちらで故障対処するかを、決めるだけだ。
この端末は使用開始して1年10ヶ月が過ぎている。この間の充電回数は、毎日充電し、一日2回充電した日もあるので、おそらく750回近くにはなっているだろう。修理に出しても、電池は交換はされない。もし電池を交換するとそれだけで7200円かかるという。しかも、正常に起動しないのでバックアップもとれないし、修理には10日から14日はかかる。その間は代替機が貸し出されるが、その設定もしなきゃならないし、またドコモショップに来ないといけない。
窓口の人に「修理しても初期設定しなければならないのは同じだし、ケータイ補償 お届けサービスの方がよいですよね?」と聞いてみると、「バッテリも新しくなるし、ドコモポイントも使えるし、そちらの方がお得と思います」という意見。「ケータイ補償 お届けサービス」なら、この場で手配して明日には家に新規端末が届く。
結局は「ケータイ補償 お届けサービス」にした。わざわざドコモショップに出向くまでもなく、最初からその方針だったので少し無駄をした感じはしたが、ショップの人も同じ考えだったのがわかったので、自分の判断力に誤りはなかったのがわかったのはよかった。
窓口の人はその場で「ケータイ補償 お届けサービス」の係まで電話をかけてくれた。本人の私にかわって手続きしたが、この「ケータイ補償 お届けサービス」を1年以上使っていないので、10%引きとなり、4500円。すべてドコモポイントで充当したので、出費は0だった。新規端末は、明日の午前中には着くという。
窓口では、明日まで端末を使うようなら代替機を貸してくれると言ってくれたが、一日のことでもあるし、またショップへ返却に来なければいけないし、代替機は辞退した。
あとは、「iD」や「クイックペイ」などのお財布ケータイが機器が故障したため「預け入れ」できなかったため、設定情報が再発行となってしまう。これについても「iD」についてはDCMX発行だったため、その再発行手続きはしてくれた。その他トルカやお店の情報などもFeliCaに入っていたと思うが、それはもうあきらめた。ここまで完璧にハードが壊れると、明日に新しい本体がくるというだけでほっとしてしまう。
窓口では、スマホの初期設定のコピーなどをくれて終了した。こちらの目的がはっきりしていたのと、それに対する対応がスピーディであったために、そうとう濃密で無駄のない時間ではあったろう。
際限なく再起動を繰り返していた故障機は、家に帰ると電池が切れて現象は出なくなっていた。

通信代理店の回線切り替え勧誘が詐欺まがい [その他]

9月はじめに、So-net会員の知人夫妻と会った。何でも、NUROだった回線をauひかりに変えることになり、奥さんは「安くなる」と喜んでいた。
2週間以上たった最近、再会すると、「回線切り替えで従来のメールアドレスが使えなくなる」というトラブルがあったという。これまでのメールアドレスが使えないのは困るので、「何とか元のメールアドレスが使えるようにしてもらったが、別に月々の料金がかかるようになってしまった…」と、困惑していた。
夫妻から聞いた経緯は、こうだ。

8月中旬、家に電話がかかってきた。KDDI(auひかり)の代理店と名乗り、NUROからauに乗り換えると通信料金が安くなるという。おきまりの「これまでの回線を解約する際の違約金はキャッシュバックする」というようなセールストークもあって、言われるままにauひかりに変えることにした。
回線切り替えはスムーズに行われ、auひかりは開通した。切り替えた回線で通信していたが、開通後10日ほどたって突然メールが送受信できなくなった。おかしいと思って代理店に問い合わせると、これまでのメールアドレスが使えないのだと言われた。この段階で、夫妻は何が起きたのかを理解していない。
今までのメールアドレスは使えないと代理店が言い張るので、「これまでのメールが使えないのは困る」と強く言うと、「それでは特別に使えるようにする。それには、月々に別料金が必要だ」という。仕方がないので、しぶしぶ別料金がかかることを承諾したが、わずかとはいえ200円の別途料金がかかっているのだという。

話が見えないので、So-netから送られてきたという書類を見せてもらった。これは、「So-net新規加入のお知らせ」で、新しいIDや新しいメールアドレスが記載されていた。メールのサブドメインは、当然今までとは違うものだった。
ここで私も気がついた。「乗り換え」は、従来のSo-netを退会し、新たに加入するという方法で行われたのではないか。So-netのサポートに電話して確認すると、その通りだった。前会員のIDを解約したため、旧メールアドレスが使えなくなった。それは困るとクレームを受けたので、メールアドレスを追加で使える、接続会員向けの「モバイルコース」へ変更することで、旧メールアドレスを復活させたのだ。このモバイルコースが、月々200円かかる。

この回線変更勧誘事例には、いくつか問題点がある。

まず、通常のユーザーは、回線変更は会員の契約は保持されたまま、「回線のみ変更」で行われると思っているということだ。「お安くなりますよ」と言われたら、従来のサービスのままで、回線だけが切り替わると思うのが常識的だ。
実際、この夫妻も私も、So-netのNUROに変更したときには、So-netの会員契約はそのままで回線だけが変更された。

また、もし「退会」→「新規加入」となるなら、そのフローをきちんとユーザーに伝えなければならない。加えて、それによって従来のメールアドレスが使えなくなること、さらにそれを使い続けるのは別料金が発生することを明確に伝える義務があるだろう。
ところが、電話を受けた奥さんは、「退会になって新規加入になることも、ましてや今までのメールアドレスが使えなくなることなど、説明はなかった」という。実際、代理店の説明書のようなものをみせてもらったが、これらの記述はなかった。

これらと関連するが、もう一つは、わずかとはいえ、以前のメールアドレスを使うために説明にはない費用がかかるようになることだ。月々どの程度お得になるのか詳細は不明だが、おそらくは1000円未満だろう。その中で200円が食われたら、回線乗り換えのメリットは大幅に減退することになる。

通信代理店の「詐欺まがい勧誘」は、今や社会問題化しつつある。8/27に国民生活センターが注意喚起を促す事態に発展している。この業者も、ネット上では悪評が高く、9/1づけで同じ社長が経営する携帯電話ショップ運営のau代理店に統合されていた。こういった事実も、ユーザーには知らされていない。ユーザーは9月以降に、もう存在しない会社と話をしていることになるのだ。幸いにもキャッシュバックはKDDIが行うことになっているそうなので、不払いの心配はないと思うが。

通常はプロバイダの契約はそのままで回線切り替えを行うのに、あえて「退会」「新規加入」を行うのか。そのほうが、通信代理店には「うまみ」があるからだろう。この点をSo-netに「新規加入だと、代理店への手数料が多いのか」と率直に聞いてみたが、「その代理店は確かにSo-netは取引はあるが、個々の条件については答えられない」とのことだった。予想された回答ではあったけれど。

もはや加入する人はすでに加入し、通信の世界は限られたパイの取り合いになっている。他社の加入者を切り崩すしか、営業拡大の機会はない。まさに仁義なき戦いで、代理店の傍若無人でなりふり構わない勧誘は、度を超していて詐欺に近い内容も多いと言わざるを得ない。先の夫妻も、「自分たちが確認しなかったのが悪い」と、泣き寝入りするようだ。だが、通信の話は一般ユーザーにはわからないことの方が多く、それを確認しなったのがユーザー側の責任であるとするのは酷だ。説明責任は代理店側にあると思う。
通信代理店は、So-netのPWまで調べていたといい、このような「業者」が個人情報を握るということにも怖さがある。まともなセキュリティ管理はされているんだろうか。また、この代理店は、夫妻がSo-netの会員であり、NUROの使用者だという情報をどこかで入手して電話をかけてきているが、この情報は、どこから流れているのか。

通信代理店からの勧誘電話は眉唾で聞かなければいけないようだ。




庭坂事件の現場は当時田んぼだった… [庭坂事件(1948年4月)の事故現場に母はいた]

2013年4月に、母親と叔母(母親の妹)と一緒に庭坂を訪ねた。母親たちの思い出の地だったからだ。母親が住んでいたあとなどを回った後に、庭坂事件の現場に行ってみることにした。どのように行くのか、アクセスがよくわからないので庭坂駅近くの駐在所に寄って聞いてみた。
ところが、駐在所の巡査は「そういうものがあるというの聞いたことあるが、詳しい場所がわからない」という。65年前のできごとというのは、そういうものなんだなと思っていると、巡査は事故現場の近くの家に電話をかけて聞いてみるという。
電話をすると、すぐに場所は判明した。教えてくれた道のりで行くと、迷いながらも慰霊碑のある場所はわかった。しかし、転落場所は田んぼであったはずが、梨畑になっていた。梨畑と築堤の間も、予想よりは農道が広い。母親たちと歩いて慰霊碑までいくと、梨畑で老夫婦が作業をしていた。
来訪の理由を告げて話を聞いてみると、この土地は代々の所有で、以前は確かに田んぼだったという。しかも、70代後半と思われる老人は、庭坂事件のことは覚えていると話す。
「その日は、オレは腹具合が悪くて、家で寝ていた。だから駆けつけられなかったけれど、大騒ぎだったのは覚えている」
しかし、母親もその老人も、何日くらいで奥羽本線が復旧し、どうやって機関車を片付けたのかのかの記憶はなかった。東北と東京を結ぶ重要路線なので、機関車は築堤下で解体しながら先に路線を復旧させたのではないかと思うのだが、そういったことを覚えている人には会えなかった。
終戦からまだ2年半。のどかな農村で起こった事件は、写真すら残されずに、しかしきれいに迅速に処理されたようだ。しかも、松川事件は1年4ヶ月後の翌1949年8月。日本の近代史に残る未曾有のミステリーの先駆けとなる事件になるとは、母親たちはもちろん、庭坂に住んでいた人たちは誰もが知るよしもなかったのだ。




庭坂事件の惨状を見た母-その2 [庭坂事件(1948年4月)の事故現場に母はいた]

母親は軽度の認知症である。1分前のことを忘れてしまう。しかし、何十年も前のことは鮮明に覚えている。そうでなくても、庭坂事件のことは、私が子供の頃からよく話していた。

母が経験した庭坂事件は、以下のようなものである。
夜寝ていると、異様な蒸気機関車の汽笛が聞こえてきた。庭坂には機関区があるので蒸気機関車の汽笛はいつも聞いていて、気にもとめていないのだが、その夜の汽笛は違っていた。
最初から鳴っている汽笛が、止まらない。悲鳴のような、うなるような汽笛が、遠くで鳴り続けているような気がした。しばらくして、近くでたくさんの汽笛が鳴った。それが異常を知らせる汽笛であったことは、母は後で知る。おそらく、単音連打に続いて長音という汽笛を機関区で待機している蒸気機関車が鳴らし続け、緊急事態を周囲に知らせたのだろう。一方で、悲鳴のような汽笛は鳴り続けていた。
庭坂には機関区があったので、国鉄関係者が多く住んでいた。やがてばたばたと、線路を走る人の足音が聞こえてきた。母親は寒さよけをはおって、後に続いた。
踏切から線路に入り、米沢方面に向けて走った。線路の上はは暗かった。
踏切からは、上り坂が始まり、やがて築堤の上に出る。15分ほど走ると、右カーブ(米沢から見ると左カーブ)の左側に、列車が脱線して落ちていた。列車はほぼ逆さまになって築堤下の田んぼに突っ込んでいた。その衝撃で、汽笛が鳴り続けていたようだ。田んぼには水が張ってあったが、蒸気機関車が落ちたために沸騰してグツグツと音がしていた。
駆けつけた人は、どうすることもできずに、遠巻きにして見ているしかなかった。呆然としていると、周囲の顔見知りの人から「こんなところを見てはいけない、家に帰れ」と言われ、また線路を歩いて帰った。

下は機関車が落ちた築堤を下から見る(2013年4月)

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脱線転覆現場を歩く母親と叔母(2013年4月)
今は梨畑になっているが、事件当時は田んぼであったことを、この場にいた農家の人から聞いた

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現場に建立されている慰霊碑

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庭坂事件の惨状を見た母-その1 [庭坂事件(1948年4月)の事故現場に母はいた]

戦後の混乱期に起こった国鉄三大ミステリーというのがある。1949年7月の下山事件、三鷹事件、同年8月の松川事件である。近代史に興味がない人でも、この3事件の話はきいたことがあるのではなかろうか。

下山事件 1949年7月6日 常磐線北千住 - 綾瀬駅間 5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪し、翌6日未明に轢死体となって発見された事件。
三鷹事件 1949年7月15日 中央本線三鷹駅 無人列車が暴走し脱線。死者6人、負傷者20人を出した。
松川事件 1949年8月17日 東北本線松川 - 金谷川駅間 故意にレールが外され列車が脱線した事件。死者3人を出した。

この3大事件の前後に、同様の列車妨害事件が発生し、いずれも未解決に終わっている。

庭坂事件 1948年4月27日 奥羽線赤岩 - 庭坂間 死者3人
予讃線事件 1949年5月9日 予讃線浅海 - 伊予北条駅間 死者3人
まりも号脱線事件 1951年5月17日 根室本線新得 - 落合駅間 軽傷者1人

とくに、庭坂事件と予讃線事件は松川事件と態様が酷似し、関連が論じられることが多い。しかし、占領下の混乱した時代でもあったため、正確な資料にも乏しく、事件の真実を突き止めるのは、現在では難しいことだろう。

1929年生まれの母親は、庭坂事件の発生当時、庭坂に住んでいた。19歳だった。平市(現在のいわき市)で暮らしていた母親一家は、疎開のため庭坂に移り住み、戦後もそこでしばらく暮らしていた。住んでいたのは、庭坂駅から米沢方面に500mほどのところにある旧米沢街道が奥羽本線と交差する踏切の北側の近く。踏切を渡った南側は、当時の庭坂の中心街だったという。

下の写真は庭坂駅から米沢方面を望む。山形新幹線がやってきた。

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旧米沢街道の踏切

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KGB博物館-4 [リトアニア2001年6月]

しばらく通路から部屋を眺めてみよう。
下は拘禁する拘禁する部屋の扉にも見えるが、おそらく拷問室の扉であろう。中の叫び声などが外に漏れないように、吸音材や防音材がドアに入っている。ドアに付いている窓から、中の様子を確かめたり、食事などを入れたんだろうか。
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こちらの部屋には、シュレッダーで切ったような紙が多量に袋に入っていた。KGB職員は、リトアニアの独立を阻止できなかったため、大慌てでここから逃げ出したという。その際、証拠となる文書類は切り刻んだが、焼いたりする時間はなかったらしい。それがそのままここに保管されている。
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