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庭坂事件(1948年4月)の事故現場に母はいた ブログトップ

新たな事実 犠牲者は即死ではなかった [庭坂事件(1948年4月)の事故現場に母はいた]

 公私で多忙となって更新できなかった。
 この間、庭坂事件で母親と2歳下の妹(私にとっては叔母)から新たな証言を得た。
 列車が転覆した後、ピーという汽笛が鳴り続けていた。母親は現場に駆けつけたが、鉄道関係者はほとんどいなかった。近所の人は遠巻きに見ているしかなかった。深夜でもあったので、庭坂機関区から来た国鉄の関係者も、当直だけだったらしく、何もできずにいた。
 機関車は逆さまになって田んぼに落ちていた。田んぼに張った水は沸騰して、グツグツと煮えたぎっていた。その状況で聞こえてきたのは、「熱いよう、熱いよう、助けて…」という声だった。転落した蒸気機関車に乗っていた3人のうちの誰かのものだった。もしかすると、3人全員だったのかもしれない。
 しかし、蒸気機関車に近づくことすら誰もできず、ただ呆然としているしかなかった。夜明けが近づくと国鉄や警察など応援が到着したのだが、庭坂事件の発生直後に現場にいたのは、母親を含めて極めて少数の人間だった。応援の人が来たときには、「その声」は聴かれなかった。
 庭坂事件の犠牲者は、煮えたぎる熱湯の中で死んだのだ。激突の衝撃で即死したのではない。事件直後は、まだ生きていた。この凄惨な状況は当時、庭坂の街中で噂となって広まった。この話は、母親の妹である叔母も間違いなく聞いたことだという。
 この内容は、慎重に何回か確認した。そしてどうやら間違いないと判断してここに記録する。

 この確認作業の中で思ったのは、レールに細工した者は、その結果をすべて予測していたのではないかということだ。急勾配の築堤上のカーブでレールを外せば、蒸気機関車は築堤下に反転して転落する。そしてそこに田んぼがあれば、その水は一瞬にして沸騰する。幸いにも客車は線路上にとどまったので乗客に犠牲者は出なかったが、客車が落ちていればそれは歴史に残る大惨事となっただろう。

 歴史に「もし」はないが、もし大惨事となっていたら、社会的な話題となって捜査も大規模になり、松川事件は実行できなかったかもしれない。とするなら、計画段階で客車までは転落しないと犯人にはわかっていたのかもしれない。

 庭坂事件が計画通りの結果となって、犯人は自信を深めたかもしれない。それが3大謀略事件に繋がるとしたら、母親が見たのはまさに歴史的な現場だったということができる。

庭坂事件の現場は当時田んぼだった… [庭坂事件(1948年4月)の事故現場に母はいた]

2013年4月に、母親と叔母(母親の妹)と一緒に庭坂を訪ねた。母親たちの思い出の地だったからだ。母親が住んでいたあとなどを回った後に、庭坂事件の現場に行ってみることにした。どのように行くのか、アクセスがよくわからないので庭坂駅近くの駐在所に寄って聞いてみた。
ところが、駐在所の巡査は「そういうものがあるというの聞いたことあるが、詳しい場所がわからない」という。65年前のできごとというのは、そういうものなんだなと思っていると、巡査は事故現場の近くの家に電話をかけて聞いてみるという。
電話をすると、すぐに場所は判明した。教えてくれた道のりで行くと、迷いながらも慰霊碑のある場所はわかった。しかし、転落場所は田んぼであったはずが、梨畑になっていた。梨畑と築堤の間も、予想よりは農道が広い。母親たちと歩いて慰霊碑までいくと、梨畑で老夫婦が作業をしていた。
来訪の理由を告げて話を聞いてみると、この土地は代々の所有で、以前は確かに田んぼだったという。しかも、70代後半と思われる老人は、庭坂事件のことは覚えていると話す。
「その日は、オレは腹具合が悪くて、家で寝ていた。だから駆けつけられなかったけれど、大騒ぎだったのは覚えている」
しかし、母親もその老人も、何日くらいで奥羽本線が復旧し、どうやって機関車を片付けたのかのかの記憶はなかった。東北と東京を結ぶ重要路線なので、機関車は築堤下で解体しながら先に路線を復旧させたのではないかと思うのだが、そういったことを覚えている人には会えなかった。
終戦からまだ2年半。のどかな農村で起こった事件は、写真すら残されずに、しかしきれいに迅速に処理されたようだ。しかも、松川事件は1年4ヶ月後の翌1949年8月。日本の近代史に残る未曾有のミステリーの先駆けとなる事件になるとは、母親たちはもちろん、庭坂に住んでいた人たちは誰もが知るよしもなかったのだ。




庭坂事件の惨状を見た母-その2 [庭坂事件(1948年4月)の事故現場に母はいた]

母親は軽度の認知症である。1分前のことを忘れてしまう。しかし、何十年も前のことは鮮明に覚えている。そうでなくても、庭坂事件のことは、私が子供の頃からよく話していた。

母が経験した庭坂事件は、以下のようなものである。
夜寝ていると、異様な蒸気機関車の汽笛が聞こえてきた。庭坂には機関区があるので蒸気機関車の汽笛はいつも聞いていて、気にもとめていないのだが、その夜の汽笛は違っていた。
最初から鳴っている汽笛が、止まらない。悲鳴のような、うなるような汽笛が、遠くで鳴り続けているような気がした。しばらくして、近くでたくさんの汽笛が鳴った。それが異常を知らせる汽笛であったことは、母は後で知る。おそらく、単音連打に続いて長音という汽笛を機関区で待機している蒸気機関車が鳴らし続け、緊急事態を周囲に知らせたのだろう。一方で、悲鳴のような汽笛は鳴り続けていた。
庭坂には機関区があったので、国鉄関係者が多く住んでいた。やがてばたばたと、線路を走る人の足音が聞こえてきた。母親は寒さよけをはおって、後に続いた。
踏切から線路に入り、米沢方面に向けて走った。線路の上はは暗かった。
踏切からは、上り坂が始まり、やがて築堤の上に出る。15分ほど走ると、右カーブ(米沢から見ると左カーブ)の左側に、列車が脱線して落ちていた。列車はほぼ逆さまになって築堤下の田んぼに突っ込んでいた。その衝撃で、汽笛が鳴り続けていたようだ。田んぼには水が張ってあったが、蒸気機関車が落ちたために沸騰してグツグツと音がしていた。
駆けつけた人は、どうすることもできずに、遠巻きにして見ているしかなかった。呆然としていると、周囲の顔見知りの人から「こんなところを見てはいけない、家に帰れ」と言われ、また線路を歩いて帰った。

下は機関車が落ちた築堤を下から見る(2013年4月)

にわさかの現場.jpg


脱線転覆現場を歩く母親と叔母(2013年4月)
今は梨畑になっているが、事件当時は田んぼであったことを、この場にいた農家の人から聞いた

現場を歩く母と叔母.jpg


現場に建立されている慰霊碑

庭坂慰霊碑.jpg

庭坂事件の惨状を見た母-その1 [庭坂事件(1948年4月)の事故現場に母はいた]

戦後の混乱期に起こった国鉄三大ミステリーというのがある。1949年7月の下山事件、三鷹事件、同年8月の松川事件である。近代史に興味がない人でも、この3事件の話はきいたことがあるのではなかろうか。

下山事件 1949年7月6日 常磐線北千住 - 綾瀬駅間 5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪し、翌6日未明に轢死体となって発見された事件。
三鷹事件 1949年7月15日 中央本線三鷹駅 無人列車が暴走し脱線。死者6人、負傷者20人を出した。
松川事件 1949年8月17日 東北本線松川 - 金谷川駅間 故意にレールが外され列車が脱線した事件。死者3人を出した。

この3大事件の前後に、同様の列車妨害事件が発生し、いずれも未解決に終わっている。

庭坂事件 1948年4月27日 奥羽線赤岩 - 庭坂間 死者3人
予讃線事件 1949年5月9日 予讃線浅海 - 伊予北条駅間 死者3人
まりも号脱線事件 1951年5月17日 根室本線新得 - 落合駅間 軽傷者1人

とくに、庭坂事件と予讃線事件は松川事件と態様が酷似し、関連が論じられることが多い。しかし、占領下の混乱した時代でもあったため、正確な資料にも乏しく、事件の真実を突き止めるのは、現在では難しいことだろう。

1929年生まれの母親は、庭坂事件の発生当時、庭坂に住んでいた。19歳だった。平市(現在のいわき市)で暮らしていた母親一家は、疎開のため庭坂に移り住み、戦後もそこでしばらく暮らしていた。住んでいたのは、庭坂駅から米沢方面に500mほどのところにある旧米沢街道が奥羽本線と交差する踏切の北側の近く。踏切を渡った南側は、当時の庭坂の中心街だったという。

下の写真は庭坂駅から米沢方面を望む。山形新幹線がやってきた。

niwasaka-eki.jpg

旧米沢街道の踏切

踏切.jpg
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