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庭坂事件の惨状を見た母-その1 [庭坂事件(1948年4月)の事故現場に母はいた]

戦後の混乱期に起こった国鉄三大ミステリーというのがある。1949年7月の下山事件、三鷹事件、同年8月の松川事件である。近代史に興味がない人でも、この3事件の話はきいたことがあるのではなかろうか。

下山事件 1949年7月6日 常磐線北千住 - 綾瀬駅間 5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪し、翌6日未明に轢死体となって発見された事件。
三鷹事件 1949年7月15日 中央本線三鷹駅 無人列車が暴走し脱線。死者6人、負傷者20人を出した。
松川事件 1949年8月17日 東北本線松川 - 金谷川駅間 故意にレールが外され列車が脱線した事件。死者3人を出した。

この3大事件の前後に、同様の列車妨害事件が発生し、いずれも未解決に終わっている。

庭坂事件 1948年4月27日 奥羽線赤岩 - 庭坂間 死者3人
予讃線事件 1949年5月9日 予讃線浅海 - 伊予北条駅間 死者3人
まりも号脱線事件 1951年5月17日 根室本線新得 - 落合駅間 軽傷者1人

とくに、庭坂事件と予讃線事件は松川事件と態様が酷似し、関連が論じられることが多い。しかし、占領下の混乱した時代でもあったため、正確な資料にも乏しく、事件の真実を突き止めるのは、現在では難しいことだろう。

1929年生まれの母親は、庭坂事件の発生当時、庭坂に住んでいた。19歳だった。平市(現在のいわき市)で暮らしていた母親一家は、疎開のため庭坂に移り住み、戦後もそこでしばらく暮らしていた。住んでいたのは、庭坂駅から米沢方面に500mほどのところにある旧米沢街道が奥羽本線と交差する踏切の北側の近く。踏切を渡った南側は、当時の庭坂の中心街だったという。

下の写真は庭坂駅から米沢方面を望む。山形新幹線がやってきた。

niwasaka-eki.jpg

旧米沢街道の踏切

踏切.jpg
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