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庭坂事件の惨状を見た母-その2 [庭坂事件(1948年4月)の事故現場に母はいた]

母親は軽度の認知症である。1分前のことを忘れてしまう。しかし、何十年も前のことは鮮明に覚えている。そうでなくても、庭坂事件のことは、私が子供の頃からよく話していた。

母が経験した庭坂事件は、以下のようなものである。
夜寝ていると、異様な蒸気機関車の汽笛が聞こえてきた。庭坂には機関区があるので蒸気機関車の汽笛はいつも聞いていて、気にもとめていないのだが、その夜の汽笛は違っていた。
最初から鳴っている汽笛が、止まらない。悲鳴のような、うなるような汽笛が、遠くで鳴り続けているような気がした。しばらくして、近くでたくさんの汽笛が鳴った。それが異常を知らせる汽笛であったことは、母は後で知る。おそらく、単音連打に続いて長音という汽笛を機関区で待機している蒸気機関車が鳴らし続け、緊急事態を周囲に知らせたのだろう。一方で、悲鳴のような汽笛は鳴り続けていた。
庭坂には機関区があったので、国鉄関係者が多く住んでいた。やがてばたばたと、線路を走る人の足音が聞こえてきた。母親は寒さよけをはおって、後に続いた。
踏切から線路に入り、米沢方面に向けて走った。線路の上はは暗かった。
踏切からは、上り坂が始まり、やがて築堤の上に出る。15分ほど走ると、右カーブ(米沢から見ると左カーブ)の左側に、列車が脱線して落ちていた。列車はほぼ逆さまになって築堤下の田んぼに突っ込んでいた。その衝撃で、汽笛が鳴り続けていたようだ。田んぼには水が張ってあったが、蒸気機関車が落ちたために沸騰してグツグツと音がしていた。
駆けつけた人は、どうすることもできずに、遠巻きにして見ているしかなかった。呆然としていると、周囲の顔見知りの人から「こんなところを見てはいけない、家に帰れ」と言われ、また線路を歩いて帰った。

下は機関車が落ちた築堤を下から見る(2013年4月)

にわさかの現場.jpg


脱線転覆現場を歩く母親と叔母(2013年4月)
今は梨畑になっているが、事件当時は田んぼであったことを、この場にいた農家の人から聞いた

現場を歩く母と叔母.jpg


現場に建立されている慰霊碑

庭坂慰霊碑.jpg

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