庭坂事件の現場は当時田んぼだった… [庭坂事件(1948年4月)の事故現場に母はいた]
2013年4月に、母親と叔母(母親の妹)と一緒に庭坂を訪ねた。母親たちの思い出の地だったからだ。母親が住んでいたあとなどを回った後に、庭坂事件の現場に行ってみることにした。どのように行くのか、アクセスがよくわからないので庭坂駅近くの駐在所に寄って聞いてみた。
ところが、駐在所の巡査は「そういうものがあるというの聞いたことあるが、詳しい場所がわからない」という。65年前のできごとというのは、そういうものなんだなと思っていると、巡査は事故現場の近くの家に電話をかけて聞いてみるという。
電話をすると、すぐに場所は判明した。教えてくれた道のりで行くと、迷いながらも慰霊碑のある場所はわかった。しかし、転落場所は田んぼであったはずが、梨畑になっていた。梨畑と築堤の間も、予想よりは農道が広い。母親たちと歩いて慰霊碑までいくと、梨畑で老夫婦が作業をしていた。
来訪の理由を告げて話を聞いてみると、この土地は代々の所有で、以前は確かに田んぼだったという。しかも、70代後半と思われる老人は、庭坂事件のことは覚えていると話す。
「その日は、オレは腹具合が悪くて、家で寝ていた。だから駆けつけられなかったけれど、大騒ぎだったのは覚えている」
しかし、母親もその老人も、何日くらいで奥羽本線が復旧し、どうやって機関車を片付けたのかのかの記憶はなかった。東北と東京を結ぶ重要路線なので、機関車は築堤下で解体しながら先に路線を復旧させたのではないかと思うのだが、そういったことを覚えている人には会えなかった。
終戦からまだ2年半。のどかな農村で起こった事件は、写真すら残されずに、しかしきれいに迅速に処理されたようだ。しかも、松川事件は1年4ヶ月後の翌1949年8月。日本の近代史に残る未曾有のミステリーの先駆けとなる事件になるとは、母親たちはもちろん、庭坂に住んでいた人たちは誰もが知るよしもなかったのだ。
ところが、駐在所の巡査は「そういうものがあるというの聞いたことあるが、詳しい場所がわからない」という。65年前のできごとというのは、そういうものなんだなと思っていると、巡査は事故現場の近くの家に電話をかけて聞いてみるという。
電話をすると、すぐに場所は判明した。教えてくれた道のりで行くと、迷いながらも慰霊碑のある場所はわかった。しかし、転落場所は田んぼであったはずが、梨畑になっていた。梨畑と築堤の間も、予想よりは農道が広い。母親たちと歩いて慰霊碑までいくと、梨畑で老夫婦が作業をしていた。
来訪の理由を告げて話を聞いてみると、この土地は代々の所有で、以前は確かに田んぼだったという。しかも、70代後半と思われる老人は、庭坂事件のことは覚えていると話す。
「その日は、オレは腹具合が悪くて、家で寝ていた。だから駆けつけられなかったけれど、大騒ぎだったのは覚えている」
しかし、母親もその老人も、何日くらいで奥羽本線が復旧し、どうやって機関車を片付けたのかのかの記憶はなかった。東北と東京を結ぶ重要路線なので、機関車は築堤下で解体しながら先に路線を復旧させたのではないかと思うのだが、そういったことを覚えている人には会えなかった。
終戦からまだ2年半。のどかな農村で起こった事件は、写真すら残されずに、しかしきれいに迅速に処理されたようだ。しかも、松川事件は1年4ヶ月後の翌1949年8月。日本の近代史に残る未曾有のミステリーの先駆けとなる事件になるとは、母親たちはもちろん、庭坂に住んでいた人たちは誰もが知るよしもなかったのだ。
2015-09-08 22:49
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コメント(1)
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グーグルの「いわさきちひろ生誕98年」ロゴから、→松本善明→松川事件ときて庭坂事件を知りました。
貴重な証言拝読しましたありがとうございます。、
by NO NAME (2015-12-15 09:01)