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番外編-2 松田聖子が活躍した時代の放送技術、オーディオビデオハード界の背景 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子が活躍した80年代前半は、どんな時代であったのか。ここでは、放送技術と一般家電であるオーディオビデオ製品の流れから、その時代背景を探ってみよう。

(1)1インチVTRの規格統一
 1977年12月にソニーがSMPTEヘリカルスキャン1インチVTRタイプCフォーマット、通称「Cフォーマット」を発売する。1インチVTRにソニーの規格が採用され、事実上の業界標準となった。これ以降、放送界は1インチVTRの導入を加速化する。イニシャルコストも安く、ランニングコストも安価な上、高画質だったCフォーマットは瞬く間に各放送局に導入された。
 松田聖子が登場した1980年には、Cフォーマット1インチVTRは各放送局に導入されていた。現在、録画撮りの音楽番組でも、またライブの音楽番組であっても、それを高画質で再び見られるのは、このCフォーマットの普及があってこそと言える。

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(2)撮像管の進化
 70年代後半、NHKは日立と共同でカメラ用撮像管としてサチコンを開発し、テレビカメラに搭載していた。一方の民放各局は、オランダのフィリップス社が開発したプランビコン管を搭載したテレビカメラを採用していた。プランビコン管は松下電器がフィリップスから技術導入して国内製造を行っていた。
 サチコン管はノイズが少なく、発色も良いという特徴を持っていたが高価だった。一方のプランビコン管は国内製造でより改修され、独特の艶色系の発色をするようになり、ノイズも低減した。プランビコンの特色は独特のコメットテールを引く点にあった。スタジオ照明などの明かりを捉えた際にレインボーのコメットテールを長く引いているのは、プランビコン管である。
 松田聖子が登場した1980年頃には、プランビコンはサチコンを凌駕する性能を持つようになり、CフォーマットVTRと組み合わせてテレビ放送の高画質化に貢献した。やがて80年代半ばになると、ダイオードガンプランビコンの登場で撮像管の画質は頂点に達する。そして90年代後半に撮像体は撮像素子の時代を迎える。
 サチコン、プランビコンともに放送画質の向上に大きく寄与した撮像管だった。

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(3)トリニトロン プロフィールの登場
 1980年にソニーはトリニトロン管のプロフィールを発売する。ソリッドなデザインでオーディオセットとの組み合わせを意識したコンセプトに、業界は騒然となった。それまでトリニトロン管は20インチまでしか製造できず、大型管は無理だと囁かれていた。それが27インチの大型管の登場で、「大型管テレビ+AVライク」なデザインを採用したテレビが業界をリードするようになっていく。
 プロフィールにはチューナとスピーカーは内蔵されていない。別売りのチューナーでは、映像系と音声系を同時に増幅するインターキャリア方式ではなく、別々に増幅するスプリットキャリア方式を採用し、音声からバズ音を追放した。
 プロフィールはテレビの大型化、高画質化、高音質化の先鞭となった。
 また、テレビ放送のステレオ化が実施されたのは意外と遅く、1982年からである。

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(4)ウォークマンの登場
 1979年、初代ウォークマンが登場する。井深氏自らが企画したという異端児は、瞬く間に世を席巻した。以後、ウォークマンはカセットやCD,MDと媒体を変化させながら、世界中に普及することになる。
 ウォークマンの登場により、オーディオは完全に「個」の存在となった。音楽は外へ持ち運べるようになり、どこでも聴けるようになった。自分だけのアイドルが楽しめるようになったのだ。

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(5)CDの登場
 1981年にCDのテスト版が発表された。1982年に50枚のCD発売により、本格的なCD時代を迎える。ランダムアクセスが可能で、S/Nがよく、スリ減りの心配もないCDは、それまでのアナログ盤と置き換わり、オーディオ音源の主流となっていく。

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(6)Hi-Fi VTRの登場
 1983年、家庭用1/2VTRにHi-Fi音声が付くようになった。スイッチングノイズの発生という難点はあったが、従来の音声が長時間録画により極めて狭帯域、低S/Nとなっていたため、上級機に導入されて広く市場に普及した。VTR音声の改善という点では、1983年の登場はやや遅きに失した感があったが、音楽録画の音質向上には大きく貢献した。

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(7)VHSとベータの戦い
 技術背景には直接の関係はないが、1970年代後半にVHSとベータは家庭用VTRで熾烈な競争を繰り広げていた。ベータの劣勢が決定的となったのは1984年。それまでベータ陣営にあった東芝、NEC、サンヨー、ゼネラルなどもVHSの販売に切り換えていく。しかし、3/4インチのUマチック、その後の8ミリVTRなど、ベータマックスと同じUローディングを採用したVTRの画質が優れていたのは明白で、必ずしも技術的優位にある方式がデファクトとなるわけではないという事実を立証した事例となった。
 松田聖子もベータマックスのCMには多数出演したが、すでに孤高の存在となりつつあったベータの劣勢を跳ね返すことはできなかった。

(8)カラーテレビ契約90%(1980年)
 NHKのカラーテレビ契約は1975年に全契約の83%となった。1980年には90%となっている。ちなみに、1977年10月1日にNHK教育放送が全カラー化を達成している。
 1980年になると、2台目、3台目の13~14インチテレビが各家庭に普及し始めた。ダイエーの「BUBU」を皮切りに始まった13~14インチテレビの低価格化がいっそう促進されたためだ。この頃の13~14インチテレビは、4万円から販売されていた。

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 2台目のテレビは、子供部屋や高齢者の部屋に設置された。同時に、テレビを一家で見るという習慣がだんだん薄れていく。子供がアイドル番組を自室で見る、という風景も日常的になっていく。80年代アイドルが活躍する素地は、こんなところにもあった。

 このような放送界、オーディオビデオハード界の時代背景は、松田聖子に限った話ではない。すべてのアイドル歌手や、その他の歌手も、またテレビドラマですらその恩恵に浴したといってよいだろう。しかし、80年代前半を駆け抜けた松田聖子は、このような時代背景を巧みに活用してしたのだと言えはしないか。自分も知らないうちに……。

 この時代背景分析は、極めて独善的なものだ。批判や叱咤する向きも多かろう。しかし、松田聖子という希有な歌手が80年代前半を猛烈な勢いで席巻したとき、こんな背景がそれを後押ししたのではないかと、私は思ってしまうのだ。
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可憐さの中に圧倒的歌唱力を見せつけた松田聖子の伝説的ワンマン番組 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 80年代前半の松田聖子のテレビ番組で、「伝説的番組」として語られる作品がある。すでに多くの方がご存じの「ザ・スター 振り向けば……聖子」である。

 「ザ・スター」は、1981年から1983年にかけて、フジテレビが関東ローカル枠で深夜に放送した音楽番組である。1ヶ月に一人の歌手にスポットを当てて持ち歌やカバー曲をワンマンライブのような感覚で歌わせるという趣旨だった。 「ザ・スター」には美空ひばり、北島三郎、五木ひろし、森進一、五輪真弓、森晶子、岩崎宏美ら20人ほどの歌手が出演した。詳細な資料がないので断定はできないが、この「ザ・スター」の出演者中、松田聖子はおそらく最年少である。

 「振り向けば、……聖子」のスタッフロールによると、プロデューサーはフジテレビの一時代を築いた名物プロデューサー高田明侑(はるゆき)氏。当時47歳。業界内では「めいゆう」さんと呼ばれて親しまれた。高田氏は出演者を非常に大事にする人だったと言われている。氏はすでに2011年に故人となった。ちなみに、高田氏は1974年から1980年まで加賀まりこの夫だった。
 ディレクターは現フジパシフィックミュージック代表取締役社長の上原 徹 氏。上原氏は1968年に「小さな日記」というヒット曲を放ったフォー・セインツのリードボーカルを担当し、その後フジテレビに入社、「夜のヒットスタジオ」「スター千一夜」「君こそスターだ!」「ザ・スター」などを制作した。番組制作当時は35歳だった。
 構成作家は、今や何の説明もいらない、あの「秋元康」。番組制作当時は24歳だった。
 制作の中心となる技術スタッフは主にフジテレビ系番組制作会社株式会社ニューテレスが担当した。
  
 2012年、フジテレビの倉庫からこの「ザ・スター」の映像VTRが見つかったという。このVTRを元に美空ひばりの劇場公開用映画が制作され、2013年10月19日から2014年9月13日まで19回にわたり「ザ・スター リバイバル」という番組がBSフジで放送された。しかし、この「ザ・スター リバイバル」では松田聖子の「振り向けば、……聖子」は紹介されていない。

 「振り向けば、……聖子」は1983年3月1日から29日にかけて、5週にわたって放送された。放送期間中に聖子は21歳の誕生日を迎えているので、収録は20歳の時に行われたことになる。番組中では、歌だけでなく、本人だけが出演したコントやトークが曲の間に披露された。後述する圧倒的歌唱力を見せつけた持ち歌やカバー曲とともに、彼女が持つエンターテイメント性を遺憾なく発揮した番組だった。

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 持ち歌の演奏はすべてカラオケ音源が使われた。番組エンディングには、持ち歌の一部とカバー曲がザ・コンソレーションの演奏で歌われた。ザ・コンソレーションは松田聖子のライブ用に編成されたバックバンドで、テレビ番組出演の際に生演奏が必要なときは出演することがあった。コーラスもまたライブの際に組んでいたコールアカシアの松田聖子専任チームと思われる。
 
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 当時の松田聖子のライブステージは、音楽的に極めて完成度の高いものだった。それは、アイドルという枠を完全に超えた域に達していた。伝え聞くところによると、ライブの前2週間くらいから、バックバンドやコーラス、スタッフは合宿してチームワーク性を高め、研鑽を積んだという。ライブの音楽性は、そういった目に見えないバックボーンから生まれていた。

 当時の松田聖子の音楽性は、とてもアイドルなどという範疇では語れないものだったが、「アイドル」という形容詞が彼女の歌唱力の高さに一種のベールを掛けてしまったことは否めないだろう。また、彼女自身も「アイドル」という立場を受け入れて、その流れに身を委ねていたことも確かだ。しかし、松田聖子は決して主体性がなかったわけでない。このころから、自分のステージではその音楽性を主張するようになっていたと思う。

 「振り向けば、……聖子」で歌われた楽曲は、様々にカットされて動画サイトにあふれている。撮影は手が込んでいて、フジテレビが力を入れていたことがわかる。持ち歌はもちろんよいのだが、しかし、なんと言ってもその圧倒的歌唱力に舌を巻くのは、エンディングの部分で歌われるカバー曲である。このカバー曲は、CD化はされていない。つまり、このカバー曲を聴くためには、アップされている動画を見るしか、方法はない。

 そのカバー曲の中でも最も素晴らしいのは、「きみだけのバラード」だろう。この作品は、この番組が放送された前年、1982年の東京音楽祭でグランプリを受賞している。「きみだけのバラード」は、アップデータが何回も削除されても、また誰かが投稿して動画サイトから消えることのない珠玉中の珠玉作だ。その他、「グッバイ・ガール」、「エンドレス・ラブ」のほか、「HERE I AM」の4作品は、彼女自身の歌唱力もさることながら、ザ・コンソレーション、コールアカシアとの共演が心を動かす高度な音楽性を放っている。

きみだけのバラード
I Don't Want To Lose Your Love/John O'Banion(1982)

グッバイガール
Goodbye Girl/David Gates(1978)

エンドレス・ラブ
Endless Love/Diana Ross & Lionel Richie(1981)

Here I am/Air Supply(1981)

 最後に、複雑な権利関係があって、不可能なことはわかっているが、この「振り向けば、……聖子」の完全版をDVD化してほしいと、切望する。私たちの世代だけでなく、その後の世代、またこの放送があった後に生まれた世代にも、訴えかけるものがあるはずだ。昭和の歌が見直されている現在、なにより、「アイドル歌手」松田聖子がこんなにすごい歌を歌っていたんだということを、もっと世の中は知るべきだ。

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番外編-1 世界初のCDタイトル50枚中で最年少だった20歳の松田聖子 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 1982年10月1日。世界で初めてCDプレーヤーがソニーと日立(Lo-Dブランド)から発売された。同時にCBSソニーから世界初のCDタイトル50枚が発売された。メータ指揮のニューヨークフィル、 中村紘子やビリージョエル、サイモンとガーファンクル、 マイルス・デイビスなどと並んで、松田聖子のアルバム「Pineapple」(35DH3)もリリースされた。
 最初のCD50枚のうち、国内制作のニューミュージック系・歌謡曲系のアルバムはEPICソニーを含めて17枚。このうちの1枚が松田聖子の「Pineapple」だった。このとき松田聖子は20歳。世界初のCD50枚の栄誉を与えられたアーティストの中で、松田聖子は最年少だった。

 「Pineapple」のアナログ盤は同年5月21日のリリース。次回の「Candy」のリリースは11月10日だったので、文字通りの最新盤だった。ベスト盤が選択されなかったのは、当時の松田聖子の勢いが強かったので、過去のイメージとなるベスト盤をあえて避けたものと思われる。
 当時のCDは西ドイツのポリグラムとCBSソニーの静岡工場でしか生産できず、国内盤はもとより、アメリカのCDも日本で作られていた。松田聖子のCDアルバムはそれからも精力的に制作され、次の「Candy」 (35DH19)は12月21日、その次の「ユートピア」(38DH39)はアナログ盤1983年6月1日リリースに対して6月22日、次期作「Canary」(38DH62)がアナログ盤12月10日に対して12月21日のリリースとなった。
 その後1984年6月10日リリースの「Tinker Bell」(32DH100)以降からアナログ盤・CD同時発売となった。

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 CDの生産はCBSソニーの静岡工場において24時間体制で行われている。最初の50タイトル以降もすぐに多数のCDが発売されている。しかし、「世界初のCD50タイトル」に名を連ねたことには、特別の意味がある。今でも、この「世界初のCD50タイトル」は、語り継がれているからだ。2番手ではダメなのだ。これにまだデビュー満2年目で20歳の松田聖子が含まれていたことは、まさに金字塔と言えよう。
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「アイドル歌手は終わり」を宣言していた松田聖子 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 神田正輝との結婚を控えた1985年4月18日、松田聖子はザ・ベストテンに結婚前最後となる出演を行っていた。このとき、「シングルのレコーディングは?」と問われた聖子は、
「もう、終わりです……」と少し寂しそうに答えた。「ご出演はどうなります?」と聞かれた聖子は、
「ひょっとすると、これが最後です…」とも答えている。
 この後聖子は、こみ上げてくる涙をこらえながら「天使のウインク」を歌った。
 蛇足だが、曲の途中、1コーラスが終わると、聖子は震える声で「どうもありがとう…」とカメラに向かって言っている。

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 2日後の4月20日、最後の生出演を終えた聖子は自宅前で取材陣のインタビューに応じている。このとき聖子は、
「もう今までのような仕事のやり方は終わりです…」と答えている。ただし、どちらの回答の際でも、
「家庭の事情が許すようになれば、また歌は歌いたい」と語っていた。これがそのまま現実となったのは周知の事実である。
 この時聖子が答えた「今までのような仕事のやり方は終わりです」というのは、シングル盤及びアルバムのリリース周期と、テレビ出演の露出度のことをさしている。たとえば、シングル盤の場合、1980年4月1日の「裸足の季節」から1985年5月9日の「ボーイの季節」まで21枚をリリースしているが、この期間から計算すると89日ごとにシングル盤をリリースしたことになる。つまり、約3ヶ月ごとのシングル盤リリースとなる。

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 このリリース間隔じたいは、当時のアイドル歌手のリリース頻度と比較してもごく平均的な周期で、当時はこの3か月ごとリリースがアイドル歌手には当たり前だった。特筆すべきは、ご存じのように「裸足の季節」の12位、「青い珊瑚礁」の2位を除けば、リリースされた21枚のうちの19枚がオリジナルコンフィデンスで1位となっていたことだ。番組出演時はまだ「ボーイの季節」はリリースされていないので、18枚連続1位が達成されていたが、19枚連続1位もほぼ確実視されていた。
 聖子はこのようなリリース頻度の高いシングル盤やアルバムの制作は、この後はもう不可能だと言ったのだ。このとき、まだ聖子は再度歌うことになるかどうかも、はっきり明言はしていない。インタビューの内容を精査してみると、どうやらこの時点ですでに再度歌を歌いたいという意思ははっきりと読み取れるのだが、その際に
「これまでのような仕事のやり方は終わりです」
と、明確に語っている。これは紛れもなく、従来のアイドル路線との決別宣言でもあった。

 また、その時点で結婚の影響で従来の人気が維持できているかも本人には予測は付いていないため、どのように「再デビュー」を果たすかの青写真はまだ描いてはいなかっただろう。現実には、結婚と出産を果たしたあともシングル盤の売り上げ1位は26枚目となる「旅立ちはフリージア」まで継続した。しかし、結婚前の「宣言」どおりに、リリース間隔は長くなり、テレビ露出度も減って、結婚前とは異なった「仕事」の状況になった。また、アメリカ進出で「仕事」の内容も多様化し、これまでよりも大人の部分を強調するようになっていく。
 まぁ、23歳で結婚して再度歌の世界に戻ってくる時には25歳頃、そのときにはアイドルでは通用しないという心づもりが聖子にはあっただろう。また、すでに23歳時点で大人のバラードが歌えるシンガーに成長しているという自負もあったから、従来のアイドル路線と決別する気持ちは固まっていたと思われる。

 いずれにしても、結婚前最後のテレビ出演で「これが松田聖子最後の出演か?」と思ってしまったファンも多かったことだろう。だが、実際の言い回しをよく聞いてみると、聖子はあくまで「家庭優先でこれからは仕事をしていく。今までのようなやり方はもうしない」と言い続けていた。これまでのような仕事はしない、というのは、事務所などの意向に沿ってアイドル路線をひた走るのはもう終わりにする、ということだったのだろう。

 幸か不幸か、結婚・出産を経ても彼女の人気は持続した。やがて、30歳を迎える頃から、彼女自身がこの持続した人気の呪縛に捕らわれるようになる……。
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松田聖子が妊娠中に出演したトーク番組と松田聖子がその21年後に「日々、過酷でした」と告白したトーク番組 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 話がでたので、さんまの番組について続けてみよう。
 松田聖子は、1986年に妊娠した。その前の1985年に紅白に出演した後、テレビ番組には出演していなかったが、6月9日に「さんまのまんま」に出演している。この出演では、妊娠中であるため薄化粧で素顔に近いメイクで登場し、着ている服もゆったりとしたものを選んでいる。いかにも「妊娠中の若妻」という印象だ。
 この中で、聖子は「この番組に出たのは、家族あげて大喜びです」と語っている。また、さんまから
「どんな夫婦生活を営んでいらっしゃるのですか?」
「神田正輝さんは帰ってくるときどんな風にするんですか?」と聞かれて、聖子は
「だいたい、お台所にいることが多いから…」と答えた。
「帰ってきたら、エプロン姿で手をふきふきしながら、『はーい』とか言って……キス?」
聖子「うふふふ。はぁ(そうです)」(どうやらキスは否定せず、事実のようだ)
「お帰りなさい、って言うんです」
と答えている。

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 このあと、台所のセットで神田正輝が帰ってきたときの様子などが再現される。
 また、さんまが聖子のお腹をさすって「男の子」だと予言しているが、聖子はさんまに「女の子だったらどうされます?」と聞くと、さんまは「引き取ります」と答えてスタジオ内を笑わせている。
 聖子はこの出演の後にはお腹が大きくなって夏期は軽井沢での避暑などを行っているので、テレビ出演はないのではないかと思われる。

 そして前回述べた1991年正月の「エッチする…」を連発した出演後、この番組では16年間の空白が続いた。そして2007年夏に、松田聖子は4回目の登場となる。ここでの会話も、台本なしでかなりきわどいモノがあった。
 冒頭でさんまが
「私なんてバツ1ですよ…」というと、聖子は、
「私なんて、『2』ですよ。……『バツ2』ですよ」と言って、その発言の赤裸々さと微妙さから
「おほほー」と言いながらオーディエンスの方を向いてソファに笑いながら倒れ込んでしまう。

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 ここで「もう結婚はしないの?」と聞かれた聖子が、即答できずに言いよどんでいるとすかさずさんまは、
「(答えが)とまったねー」と茶かした。聖子は「違う」って苦笑いしながらオーディエンスの方に目線を向けた。
「もうこりごりでしょ。でも老後を考えたら、聖子さん、結婚した方がよいですよ」とさんまは語っている。
 その後3度目の結婚をしたけれど、このまま離婚しないで続いて欲しいけれども。

 話題はさんまがよくラジオなどでもネタにしている「週刊明星」の表紙になったときのことを語る。このとき、松田聖子はまだデビュー直後。さんまは芸人として初めて「週刊明星」の表紙を飾ることになり、デビュー仕立ての聖子と並んで写真撮影を行ったのだという。このときの撮影は葉山のホテルの庭で行われたという。
 さんまと聖子が表紙となったのは1980年8月24日号である。週刊誌は約1週間前に発売されるので、発売日は8月16日頃だろう。撮影日は7月下旬から8月上旬頃だったのではなかろうか。さんまは「これからものすごく伸びる人です」と聖子を紹介されたと言っているが、このとき「青い珊瑚礁」は7月1日にリリースされ、9月に1位になるべく躍進中だったはずだ。つまりまださんまは聖子をかけだしのアイドル歌手程度にしか認識していなかった。この後聖子があっという間にスターダムにのし上がり、さんまは驚いたと語っている。

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 この時の表紙、見てみるとなんだか松田聖子でないようなイメージで写っている。「これ、別人でないの?」と思ってしまうくらい、イメージが違う。しかし、トーク内では聖子が「葉山のホテルの庭で、撮影しましたね」と語っているし、関係者も否定していないから、これは松田聖子なんだろう。

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 話は進んで、さんまから「今、恋しているの?」と聞かれた聖子は、
「してないですね」と答えた。「ほんとに出会いがないんです、いつも同じメンバーでコンサートとかしているから」と語っている。
 ここで昔の話になり、さんまが
「オレにはいっぺんも寄りつかなかったね」と言うと、聖子は、
「そんなにご一緒する機会がなかったですよね」と言う。さんまは、
「あったよ、死ぬほどあったよ」と気色ばんで話す。
聖子は「でもほんとうに素敵な方でしたよね」と取って付けたように話すと、さんまは「おえー」と言ってソファに崩れかかった。聖子はまずいなという顔をしながら「あ、いや、今も素敵ですけど…その頃まぶしかった」と言いながら、かなり本気でフォローしていた。

 さんまは「オレはそんなこと言うてない、恋人として一度もなかったという話をしているの」と言う。聖子は、
「一度も誘ってくださらなかったではないですか」と話す。
「初めてデートしようかなと思ったときに、あなたには決まった男性がいたんですよ」(郷ひろみのことだろう)
聖子「いや、誘おうと思ってなかったでしょ」
さんま「…いや…」
聖子「絶対思ってない」(かなり力強く言う)
さんま「…いや…」
聖子「絶対思ってない!」(さらに力強く言う)
さんま「…絶対……」
聖子「絶対思ってない!!」(もっと力強く言う)
さんま「オレ、わかっていたもん、あのときに…」
聖子「え、なんですか?」(ちょっとイントネーションがおかしい)
さんま「元の恋人や、あのとき、恋人がいたでしょ」
聖子「…、は、はい」「え、な、なに、えーーっ」

 そして「そのときじゃないじゃないー、だって」(かなり本気の顔)
さんま「そのときですよぉ」
聖子「あ、今、ちょっとタメ口になっちゃった、ごめんなさい」と笑いながら語っている。
さんまは「やめてよー、あなたをこんなに大きくしたの、私だからね…」と冗談で言っている。
さんまは「電話番号でも聞こうかなと思った」
 聖子は顔をしかめながら「絶対思ってない!」
「そしたら、その元恋人から『いつもお世話になってます』って何かいただいたんですよ」
聖子「うっそー」とのけぞる。
 そんな本音できわどい会話が続いた。

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 このトークの冒頭なのだが、80年代初頭に報道されたスキャンダルの話になった。
さんま「いろんなスキャンダルを乗り越えてきて、まだテレビに出ているのは、すごいよね」
聖子「ははは…」
さんま「一時期、女性誌は、聖子、さんま、聖子、さんまで、スキャンダルをずーっと書かれてきた時期があったよね」
聖子「あー(そうですね)」
さんま「(そうやって)書かれてきたよね」
聖子は笑いながら「あーそうですね、あっという間に、年数がたちましたね」と話す。
さんまは「あれは30年くらいまえですからね、お互い独身で…」
聖子「ええ」
さんま「あなた、ほんとにすごいね。ずーっと笑っていたもんね」
聖子「でも、過酷ですよね、やっぱり。人生、過酷ですよ」
さんま「過酷だったけど、こんなに強い女だとは夢にも思わなかったよ」と語っている。

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 この内容は、「松田聖子の苦悩と悲しみ」の欄でも書いたが、聖子が当時置かれていた状況を如実に、しかも短い言葉で言い表している。聖子は、当時のスキャンダル報道で、痛めつけられていたのだ。それを「人生、過酷」だと表現した。20歳か21歳頃に、様々に言われ続けた報道に対して、彼女は傷付いていた。しかし、それに対して聖子は当時、何ら反論せずに笑っていた。いつも笑っていた。
 それをさんまは見ていた。「ずーっと笑っていたものね」と言う一言は、以前にも述べた聖子は「ただ明るく笑っていた」という事実に結びつく。何を言われようがただ笑っていた聖子に、さんまも感服して思うところがあったのだ。
 ほんの短い対話ではあったが、これはウソではないだろう。このトークの中で、唯一シリアスな一面を見せるやりとりだった。当時の聖子の苦しみが垣間見られる会話だった。
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松田聖子が「H(エッチ)する?」「H(エッチ)しよう」を連発したトーク番組 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子が「H(エッチ)する?」「H(エッチ)しよう」を連発したトークがある。時は1991年正月。「さんまのまんま」の正月特番でのこと。招かれた聖子は和服で訪れる。前年1990年のジェフ・ニコルスとの愛人報道などで痛めつけられた件などをひとしきり話題とした。「ディズニー-ランドに一緒に行ったことを報道されて、ひどかった。もう私はディズニーランドには行かない」と聖子は語っている。
 この後、1990年11月に公開された映画「どっちもどっち」の撮影現場での話題となる。この映画は明石家さんまと松田聖子が主演で、沢口靖子、布施博、 森口博子、 定岡正二などが出演したコメディだった。この撮影現場で、神田正輝が来たときのことなどが話題となった。このとき、松田聖子も明石家さんまもまだ離婚はしていない。松田聖子の子どもである神田沙也加は4歳、明石家さんまの子どものIMALUは1歳だった。
 前述のように撮影現場に見学に来た神田正輝と松田聖子の状況が明石家さんまから暴露された。ウソではあったが、「神田正輝が聖子の胸に手を入れていた」「スカートをめくっていた」とか発言したほか、真実としていったん現場を去ろうとした神田正輝に松田聖子が「パパー、パパー」と言って大道具のバルコニーから話をしていたという話になった。

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 このあと、次のような会話になった。
さんま「ほんとにやらしいね(君たちは)…」
 聖子は「えーっ」と驚いた顔をしながら、
「さんまさんのところだってそうじゃないですか」という。
さんまは「おれのところは、いやらしいこと、別にしてないじゃない」というと、聖子は
「うそばっかり」と笑いながら言う。
聖子「だって、毎日帰るときに、『今日エッチする?ウチはエッチするから』とか、言っていたじゃないですか」と言った。(スタジオ内大爆笑)
これにはさんまもうろたえながら、
「ようそんなこと、正月早々発表するなよ」と言い、
「キミの答えを言ってあげようか。確かにオレはそういうことを言うたよ。でも、オレのイメージはまだいいけど、キミのイメージはまた崩れるよ」と続けた。
 聖子「えー、なんで?」
 さんま「『今日オレんとこエッチするけど、キミんとこは?』って聞いたら、『ええ、1時すぎに(エッチします)』って(答えた)」(スタジオ内大爆笑)
 聖子は爆笑しながらさんまを叩き続ける。
 聖子「違う、違う、あれはさんまさんがお疲れさんって24時くらいに(撮影が)終わったじゃないですか。そしたら
『さぁ、今日も12時だな。これから帰ってお風呂浴びて、1時半だな、エッチして。(キミたちも)同じ時間にエッチしよう』とか言ったのは、さんまさんじゃないですか」
さんま「おれはそんなことは、しないよ、しゃべっているだけで」
聖子「えー、次の日に『した』って言ったじゃない」(スタジオ内大爆笑)
 こう言われてさんまは手で顔を覆ってしまったが、小さな声で「子どもができてからはエッチしてないよ…」と話し、1992年9月の大竹しのぶとの離婚を示唆するような発言もしている。松田聖子が神田正輝と離婚したのは1997年1月のことである。
 このトークでは、さんまからは一切何もフリがないのに聖子の方から「エッチしたって言ったじゃない」という発言が飛び出した。また、通算で5回、聖子は「エッチ」という言葉を発している。自由奔放で屈託がなく、あっけらかんと話す聖子には、ただ笑ってしまう。まぁ、人はやることはやっているわけで、明石家さんまが相手で気が緩んだせいもあるのだろうが、それを隠すことなく話していた聖子には、おそらくどう受け取られるかという計算は何もなかっただろう。
 これだけでなく、全編できわどい会話がなされていた。それを自然に話す聖子は、ともかく明るい。このトークは、聖子の性格の一端がわかる内容だった。この16年後、同じ「さんまのまんま」に松田聖子が登場。そのときも自然できわどいトークを繰り広げている。
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松田聖子唯一の演歌風ムード歌謡は、大まじめに作られた「コミックソング」 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 1993年11月10日にリリースされた「かこわれて、愛jing」。Matsuyakko(まつやっこ)が歌うこのクラシカルで演歌風な曲は、夜の情報番組のエンディングテーマとして作られたものだ。
 意味不明なタイトル、ありがちの演歌風な詩、ムード歌謡的な編曲、そして何よりまるでカラオケで松田聖子が歌っているような演歌風でムーディな歌唱。そして歌っているのは松田聖子ではなく、あくまで「Matsuyakko」。徹底して「ベタ」な作風のこの曲、実は大まじめに作られた松田聖子流コミックソングだったんではなかろうか。つまり、この曲、全部が壮大な「大人のジョーク」なのだ。
 推測になってしまうが、おそらくテレビ局側から聖子側に「こんな風な曲、やってみないか」的な軽い打診があったんではないか。それは面白いと、聖子側スタッフは考えた。どうせやるなら、思い切り「カラオケ」的な曲作りをしてみたらどうなるか。栗尾直樹や小倉良もおもしろがって、曲を作る。ふだんはそんな曲作りはしない人たちが、オレでもできると、演歌風ムード歌謡を作ってみる。聖子自身も、演歌が歌えるから歌ってみましょうということになる。そして、おそらく制作日数は1日か2日くらいで、この曲はできてしまう。
 ここからも推測だが、最初はリリースの予定はなかったのではないか。あくまで歌っているのは「Matsuyakko」。松田聖子ではない。だけど聞きつけたレコード会社の担当者も「どうせなら、レコード化しましょう」となったんではないか。そこでレコード化にあたっては、おもしろ半分ながら徹底して「演歌化」を推進。ジャケット写真の聖子も演歌風に撮影して、カップリングにはカラオケを収納。おまけに、簡単にRIMIXできるもんだから、よりベタなムード色を強めたナイト・クラブ・ミックス・バージョンまで収録した。
 
かこわれて愛jing.jpg

 ここまできたら、もうコミックソング。聴いたとたんに、笑い転げた。そして思った。一頃よりも曲は売れず、すべてを自己プロデュースしていた松田聖子。でも、こんな冗談ソングを作れるなら、精神は健全だな、と。ともすると、多くのアイドルが落ち目になったときに、精神的な破壊に見舞われている。そんな心配は、この人に限って、ないなと。この人の精神力は、やはり強靱だった。

 この曲は、一種の「自虐ネタ」なのだ。つまり、破竹の勢いでヒットを続けてきた松田聖子が、かつての勢いを失っていた時機が、1990年代前半だった。しかし、「迷いながらもきちんと自分の歌を歌ってます、間違っても演歌は歌いません。たとえそれを歌えたとしても。」それを示したのが、この「かこわれて、愛jing」だったのだ。自分の歌として演歌は歌いません、ということをあえてMatsuyakkoが演歌風に歌うことで、逆説的に世に示したのではないか。そう、「人気がなくなってきたから、演歌を歌う、なんてことはありませんから」って、言っているのだ。

 まぁ実際、もし本気で松田聖子が演歌を歌ったら、もっと徹底して歌い込むだろうから、ここまで軽い歌い方にはならないだろう。彼女の声は演歌向きではないかもしれない。しかし、彼女は、80年代初めに演歌を歌っていて、本気で歌うと、かなりな演歌になる。この曲ではまさに聖子が軽くカラオケで歌っているような感覚がある。

 ただ、リリース時期が悪かった。この「かこわれて、愛jing」がリリースされたのが11月10日。その前にリリースされたのが「A Touch of Destiny」で5月21日。「大切なあなた」が4月21日だった。そしてこの後のリリースとなる「もう一度、初めから」が翌1994年5月1日。つまり、約1年間、メインストリームとなる曲のリリースがなかった時期だった。
 この間、半年ぶりにリリースされたこの曲を「コミックソング」と認識できずに、「松田聖子の変節」と受け取ったファンも多かった。この間に、メインストリームとなる楽曲がリリースされていたら、この曲はMatsuyakkoが歌うジョーク曲と正確に認識されていたことだろう。それがこの曲の悲劇だった。そのためか、CD売り上げ的には大して売れなかった。あまりに本気で作ったが故に、そのジョークな部分が、世に伝わらなかったのだ。

 もしかすると、メインストリーム系の曲が1年間ないからと、CBSソニーがその間にこの曲をCD化してしまおうと目論んだのかもしれない。もしそうだとしたら、それが「誤解」を生む原因となったのかもしれない。
 ディスコグラフィーには載っているのに、アルバム収録がなかったのも、この曲が「Matsuyakko」が歌うコミックソングだったからではなかろうか。聖子も制作サイドも、この曲はあくまで「ジョーク」だったのだ。繰り返すが、この曲で松田聖子が何か変わろうとしたことはないと思う。これはファンサービスの一環だったのだろう。

 その後2010年5月に発売された「 Seiko Matsuda Single Collection 30th Anniversary Box~The voice of a Queen~ Limited Edition 」に初めてこのCDがそのまま収録された。この収録は聖子を取り巻く環境や社会情勢が変化した結果だったのだろう。ようするに、この「かこわれて、愛jing」が「まじめな曲」として初めて日の目を見ることになったのだ。
 この曲、聴いてみると、なんかクセになりそうな感覚がある。味わい深いものが存在する。その曲想といい、歌い方といい、「こんな歌、聖子が歌ってもいいよね」って、言える時代になったのだ。また、誰もが歌いやすい曲でもある。それを反映してか、カラオケリストにはほぼ必ずラインアップされていて、カラオケ店では静かな人気を呼んでいるという。
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松田聖子=良きおかあさん、を定着させたリアリティ溢れるテレビドラマ [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 「おかあさん」としての松田聖子が定着したドラマが、よく知られている「たったひとつのたからもの」だ。2004年10月26日に2時間半の単発番組として放送されたこのドラマの中で、聖子はダウン症児を持つ母親・佐藤由美を演じた。このドラマは松田聖子がほぼ11年ぶりにテレビドラマ出演するという話題性も手伝って、視聴率30.1%をたたき出している。

 ドラマでは聖子が秋雪とほんとうの母子のように演じている姿が視聴者の共感を呼んだ。彼女以上の演技ができる女優はたくさんいるだろう。しかし、ドラマ中では、松田聖子は秋雪役のダウン症児と心を通わせることに心血を注ぎ、随所でほんとうの「おかあさん」のように振る舞っている。そこには、「おかあさん」としての聖子の姿が見られる。その過剰ではない、抑制した演技は、このドラマに大きなリアリティをもたらした。

たった一つの宝物.jpg

 ドラマ中に、秋雪が運動会で走る場面が出てくる。この実際の撮影シーンで、秋雪役の子供がハプニングで転んだのだという。その場面は本編でも使われているのだが、あわてて秋雪の元へ駆け寄ろうとする聖子がバックに映っている。このハプニングでは、秋雪役の子供は自力で起き上がって走り出す。聖子はそれを見て手を出すのをやめている。まるで本当の親子のような所作だった。
 聖子はかなり役になりきるようなところがある。この後に作られた「火垂るの墓」でも、その宣伝のために出演した番組で、子役の話になると声を詰まらせて話ができなくなることがあった。演技とは思えないほど上手だった子役とは、精神的に結びついていた面があって、思い出すと涙が出てしまうのだと説明していた。
 このドラマの中でも、こうやって子育てをしたんだろうか、と思わせる箇所が幾つも出てくる。また、夫役の船越英一郎との会話でも、家庭ではこんな風に話すのだろうかと思わせる場面が多数ある。その自然体の演技は、多くの視聴者に訴えかけるものがあったようだ。
 21歳の時、コントで演じた「おかあさん」は、21年後、ドラマ「たったひとつのたからもの」の「おかあさん」役で結実した。

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21歳の「松田聖子おかあさん」がとても様になっていて癒やされるコント [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 21歳の松田聖子がおかあさん役になるというコントがある。1983年前半頃に制作された「積木くずし」のパロディ「けんと聖子の5分間戦争・積木くずれ」である。この中の聖子が、実に様になるというか、かなりな「おかあさん」になっていて、興味深い。
 まず服装が「おかあさん」ぽく地味なんだが、スレンダーでこんなおかあさんがいたらいいなと、率直に思ってしまう。

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 続いて、台所での仕草が、何とも主婦っぽくて、きちんと母親から家事を教わっているように見受けられる。もしかすると、役者デビューしたときにそれなりに練習したのかもしれないが。

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 ともかく、とても「おかあさん」のようで、見ている方は居心地が良くて、癒やされてしまう。これは衣装やセットとの絡みもあって、総合的な「見せ方」の勝利なんだろうが、それにしても雰囲気が良くて思わず見入ってしまう。

 途中で、けん子が初潮を迎えたようなやりとりがある。
 「おかあさん、私、病気みたいなの」
 「病気?どうして?」
 「あのね……」
 けん子が聖子に耳打ちする。
 すると聖子が笑い出し、
 「それは病気じゃないのよ。けん子ちゃんが大人になった証拠なのよ」
 「病気じゃないの?」
 「めでたいわ、早速お赤飯炊かなきゃね、あははは…」
 そしてけん子がトイレに行って、
 「私、痔だったわ。切れ痔…」というオチになる。

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 生っぽいやりとりが続く中で、まるでだめ押しのような
 「…お赤飯炊かなきゃ…」
 の一言は、もう完璧に赤裸々で、おまけに生々しくて苦笑するしかない。よくここまでやりとりしたもんだと感心する。
 しかし、聖子自身も、また事務所サイドも、今から考えればよくOKしたなという内容だと思う。まだ生理用品が今ほどおおっぴらにCMなど打っていなかった時代だったんではないか。そんなときに、コントとはいえ初めて生理になった日のことを言葉に出して言うなんて、勇気があったなと感じる。あの時代の松田聖子の勢いからして、あえてそんな発言は必要のないことだったはずだ。だけど、コントのためにはそんなことも口にするという聖子のおおらかさというか、心の広さには、脱帽してしまう。
 こんなことはそのうちあっけらかんと話す時代が来る、というような先見の明が聖子にはあったのかもしれない。今から見ればとくにどうということはない内容なのだが、まだあの時代では「ブラックジョーク」として受け取られたのかどうだか、わからない。しかし、これをネタにした聖子も関係者も、よくやったと称えられるべきことなのだろう。

 このコントの中で、けん子の部屋が出てくる。グレているので部屋は落書きだらけ。で、その中に大きく「聖子命」という落書きがある。これはわかる。だが、その下、ドア右に小さく、「ひろみ命」という落書きが書かれているのだ。これは言うまでもなく、「郷ひろみ」のことだ。スタッフが書いたんだろうが、その当時聖子が「郷ひろみが好き」だと公言していたとはいえ、それにNGを出さずにそのまま収録したのには驚いてしまう。ある種、それは公然とした事実として世に伝搬させたかったのかもしれない。

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松田聖子殴打事件-精神を病んだ青年は松田聖子を殴り続けた [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 1983年3月28日。沖縄市市営体育館では松田聖子のスプリングコンサートが開催されていた。スプリングコンサートは沖縄市を皮切りに北上して開催する予定となっていた。
 始まって約1時間がたった午後7時40分頃、聖子が「渚のバルコニー」を歌い始めてサビの部分にさしかかったとき、舞台下手から体格の良い男が瞬間的に聖子に駆け寄った。男は持っていた30~40cmのスチール製工具で聖子に殴りかかった。聖子はとっさに頭をかばいながら逃げたが、スチール工具は3回頭に打ち付けられた。男は逃げ回る聖子を追いかけ回した。
 「キャーッ、やめてー」という聖子の叫び声が会場に響いた。警備スタッフが数人駆け寄り、男を羽交い締めにした。会場は騒然となった。聖子はほとんど失神状態で顔面蒼白だった。スタッフに抱えられて会場の外へ運び出され、救急車で病院へ向かった。男はそのまま警備の警察官に傷害の現行犯で引き渡された。(現行犯の場合、警察官でなくとも一般人が逮捕可能である)
 聖子は右側頭部と右手首に約1週間の裂傷と打撲傷を負った。レントゲンやCT検査の結果、骨折や脳内出血はなかったが、体が震え、涙が止まらず、精神的ショックは計り知れず大きかった。その日はそのまま入院した。

殴打新聞報道.JPG

 この様子は当日放送される予定だった「ザ・トップテン」の生中継クルーによって撮影されていた。聖子が男に打ち付けられる画像はニュース等で報道され、視聴者にも衝撃を与えた。

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 犯人は埼玉県に住む聖子ファンの19歳の少年で、精神的な病気で精神科の病院に入院中だった。少年は26日に外泊許可を得て27日に家族と都内に買い物に出かけたという。しかし、その後所持金3万5,000円を持ったまま行方をくらませてしまう。少年はその所持金で航空券を購入し、沖縄まで来て、スチール工具を購入していた。少年は「有名な松田聖子を殴ることで自分も有名になりたかった」と警察で供述したという。
 松田聖子にとっては何も責任がない、100%の災難だった。しかし、ここからの再起がすごかった。スプリングコンサートは休止となったが、わずか8日後の4月5日には熊本のステージに彼女は立っていた。「声が出るかものすごく不安だった」という聖子は、右腕に包帯を巻いたままの痛々しい姿で全曲を歌いきった。
 大方の見方では、その精神的ショックから数ヶ月は再起不能ではないかと見られていた。しかし、彼女はわずか1週間足らずで笑顔を携えてステージに帰ってきた。その精神力の強さには誰もが驚かされた。
 ステージに先立って、記者会見が行われた。ここで聖子は手に包帯を巻いた姿で現れ、笑顔で「もう大丈夫です」と記者団にアピールした。また、加害者をどう思うかと問われると、
 「精神に迷いがあって(事件を)起こしてしまった人を憎むわけにはいかない…」と語った。

殴打復帰会見.JPG

 ものすごく怖かっただろう。当時の警備の手薄さには、驚くしかない。しかし、この恐怖を乗り越えてわずか1週間足らずで現場復帰した聖子は、賞賛に値する。改めていうが、この精神力には脱帽する。また、終始笑顔を絶やさないでいたことにも、ともかく驚く。「笑顔を作っていた」という聖子だが、こんな時まで笑顔でいたことに、ひたすら畏怖の念すら感じてしまうのだ。
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