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松田聖子の歴史を動画で振り返る ブログトップ
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永遠に失われた声質-松田聖子本来の声はもう聴くことができない [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子が歌う曲には、転換点がある。デビューから「夏の扉」までは松田聖子本来の声。しかし、「白いパラソル」くらいから声が出にくくなってしまう。「風立ちぬ」では前述したように喉が荒れて声が思うように出ていない。おそらくテレビ番組などでは「夏の扉」の後半当たりから声が出にくくなっているのではなかろうか。
 この原因は、1981年2月11日から行われた初めての全国縦断コンサートにあった。11月22日までの間に、全国69カ所でコンサートを行った。4日連続でフルコンサートを行った週もあった。この合間に、もちろんテレビ番組の収録や新曲のレコーディング、雑誌の取材や撮影も行われていた。まさに殺人的スケジュールだった。
 年末のレコード大賞の授賞式に出演したとき、「辛かったことは?」と問われた松田聖子は「声が出なくなってしまったことです」と答えて泣いたという。この年の秋にはもう声はガラガラでまともに発声できる状態ではなくなっていた。そしてこれを境に、彼女本来の声質は永遠に失われた。聖子は歌い方の変更を余儀なくされたのだ。
 ここに、1本の動画がある。全国縦断コンサートの一環として、NHKの「レッツゴーヤング」でワンマンショーを開催した時のものだ。NHKホールで行われたこのワンマンショーは8月24日だった。この時歌った「Only My Love」を見ると、彼女は頭から胸まで、汗だくで歌唱しているのがわかる。全身が汗でびっしょりだ。
 しかし、歌い出しから何か苦しげな感じがして、歌の後半になると、声が出なくなってしまう。それでも聖子は懸命に歌っていた。

汗だくで歌うOnly My Love.JPG

 この時期には、もうすでに喉を痛めていたのだろう。それでも一生懸命歌う姿に、胸を打たれた。聖子は後に
 「デビューから数年間は、ただ無我夢中で歌っていました…」
と語っている。おそらくは事務所の方針に従って、言われるがままに歌っていたのだろう。それが喉を痛めてしまう超過密スケジュールであっても、文句なども言わずにただひたすら歌い続けていたのだ。この時の姿を見ると何だかかわいそうになって、涙が出そうになる。
 ここでもし喉を痛めたことを理由に後のスケジュールをキャンセルしていたら、松田聖子の声質はそのまま回復していたかもしれない。しかし、彼女は歌い続けた。その結果、本来の声質を永遠に失ってしまった。もっとも、スケジュールをキャンセルしたらその後の人気がどうなっていたかはわからない。だけれども、松田聖子本来の声質で歌われたその後の楽曲を聴いてみたい気もする。全身全霊をかけて歌い込まれた松田聖子本来の声質の歌を聴いてみたいと思うのは、私だけではないだろう。
 その後彼女はガラガラの低音をハスキーな発声に変えて、高音へと繋ぐ歌唱法を編み出した。いわゆるキャンディボイスである。このキャンディボイスの実態が何なのか、私は歌唱法には詳しくないのではっきりとはわからない。高音部はファルセットであるというのだが、でもほんとうにファルセットなのかという疑問も沸いてしまう。だが、天才と言われる彼女も苦しみながら努力を重ねていたのは間違いない。
 しかし、この歌い方は、聖子に新たな魅力を与えた。ハスキーな低音部から伸びやかな高音まで、自在に変わる声質を獲得した。それがまた大人の雰囲気を醸し出すことに繋がった。
 1985年の結婚で休業したことで、彼女の喉は改善した。休業復帰後の楽曲からは、濃厚でより滑らかな歌い方になっている。しかし、「夏の扉」まで展開されたこの小さな身体からは想像できないような全身から声を出す歌い方は、もう戻っては来なかった。だから魅力がないなどと言うつもりは毛頭ない。彼女の歌い方は今でも素晴らしい。だが、あの全身から声を出すような歌い方は、もう81年初頭までの動画でしか見ることはできないのだ。その意味で、81年初めまでの動画は非常に貴重な存在だといえよう。
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ラジオでは区別が付きにくい松田聖子と神田沙也加 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 ラジオの話題を続けてみよう。松田聖子と娘の神田沙也加は、2011年6月2日に「オールナイトニッポンGOLD」で共演している。共演したのは、これが初めてだった。以降共演していないようなので、これが唯一の母娘ラジオ共演ということになる。
 最初にこの動画を聴いたときに、松田聖子と神田沙也加の区別がほとんど付かなかった。何回か聴いてきたら区別が付くようになったが、それでも高い声質のところではよく聴いていないとどっちがどっちだか正直なところ、わからなくなるときがある。それくらい、二人は似ている。
 松田聖子の方が低域から高域まで広いバンドを持った声で、神田沙也加は周波数スペクトラムが高域に寄った感じの声なので普通に話していると違いはわかる。しかし、笑ったり、やや大きな声になってきて絶叫調になってくると、区別が付きにくくなる。
 神田沙也加は「松田聖子情報管理室」(通称MSJK)の「エージェント」という役柄で出演している。母親の日常を暴露するという役割を負っての登場となった。
 最初に神田沙也加が現れたときに、沙也加が
 「娘でーーす」とおどけながらブースに入ってくると、松田聖子が
 「どうしてあなたが……」とやや呆然とした雰囲気になるのがおかしい。 

松田聖子と神田沙也加.jpg

 ここで垣花アナウンサーが、
 「お二人がテレビで共演するのは時々見かけますが、ラジオで共演するというのは?」とたずねると、
 「初めてです」と聖子と沙也加はほとんど声を揃えて答える。
 これを答えるときに、聖子の声がやや低めになってかすれたような感じになり、松田聖子には「声の表情」があるなと感じる。
 番組内で垣花アナウンサーが「お二人は似てますね」と言うと、聖子、沙也加の順で
 「似てますか?」
 「似てますか?」
と全く同じ答えを返すときには、その感じがあまりに似ていてもう笑ってしまう。
 この中では、松田聖子が20歳の時の1982年11月30日に放送された「オールナイトニッポンスペシャル」のオープニングが流される。松田聖子はこれが流されると知ると「えーっ嫌だな。今日は恥ずかしい」(今日でなければ、恥ずかしくないのかな?)と言って嫌がっていたが、
 「オールナイトニッポンスペシャルを何度もやっていただきましたが、記念すべき第1回の放送がここにあるんです」と垣花アナウンサーが話すと、聖子は、
 「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってください」と言いながら、
 「オールナイトニッポンのパーソナリティをやるということは大変な(役割)だった。だから相当緊張しているはずですよ。たぶん相当なまったりとか、うわずったりとか、していると思います。それをここであえて聴かなければいけないんですね?私。いやー、参りましたな」と語っている。
 オールナイトニッポンスペシャル初回の録音が再生されると、「もういい、もういい…」と何回も言っていた。そして、
 「やはり緊張してますね。でも、成長がないですね。31年たっても、こんな感じではないですか」と言っている。
 これを聴いて神田沙也加は、
 「私の方がうまいなと思いました…」と笑っていた。松田聖子も笑いながら、
 「それはそうですね。」と答えていた。神田沙也加は、
 「良い意味で変わらない明るさというか、そういうところがある」と言うと、聖子は
 「私、けっこう緊張しぃなんですよ。そして、恥ずかしがり屋なんですよ」と言っている。
 会話は進んで、松田聖子が神田沙也加の「流星」のモノマネの一節を披露する。それに対して、神田沙也加は松田聖子が食事の際に沙也加が使ったナプキンを使ってしまったときのことや、ミルクコーヒーをの飲んだときの発言を完全なアニメ声でモノマネする。松田聖子は、
 「ウソ、ウソ」と言って絶叫調の笑いで否定する。
 全編和やかで良き母娘といった感じで、断絶やら疎遠な感じはしない。最近の様子はわからないし、このときも「お仕事」としてやっている面もあるだろうから、割り引いて聴かなければならない部分はあるだろう。しかし、仲むつまじい母娘といった感じに見受けられる。
 親子の間には、いろんなことがあるものだ。仲が悪いように見えて、実はベースでは心が繋がっていたりする。自分に当てはめてみても、そういう感じはする。家族の中のことなんて、しょせん他人にはわからないものだ。この後の事務所離脱ですきま風が吹いていると言われる母娘の中だが、単に忙しいだけなのかもしれないし、その実際はわからない。ましてや、そういう報道に反応しない聖子なら、なおさらそういった内部情報は出てこないだろう。
 いずれにしても、もう5年以上前になるこの番組だが、かなり抱腹絶倒する面白さであることは間違いない。

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松田聖子の原点はラジオ番組だった-今もラジオ番組に積極的に出演する理由 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 1979年11月に日本テレビのドラマ「おだいじに」に登場した松田聖子は、ドラマ上の名前をそのまま芸名にして、翌12月、ニッポン放送の「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」のパンチガールとして起用される。歌手としてデビューできなかったのは事務所の方針で歌手としての活動ができなかったためで、翌年2月にはこの方針が撤回されて彼女は急遽「裸足の季節」でデビューを果たす。
 このラジオ番組「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」は平凡パンチがスポンサードするエロっぽい内容で、かなりきわどいトークなどが売り物だった。聖子は「今日のパンティの色は?」「スリーサイズは?」「肉体関係あるの?」というような問いかけに屈託なく、嫌がらずに答えていた。ちなみに、本人曰く、色は白だった…。

投書を読む.jpg
ラジオで話す聖子.jpg
 松田聖子はこのあと、1981年4月~1983年3月まで「SONY Night Square」で放送された「夢で逢えたら」に出演。さらに1982年11月30日からは「オールナイトニッポンスペシャル」を担当した。

夢で逢えたら.jpg

夢で逢えたら放送中.JPG
 これらの番組の中では、松田聖子は飾らない自分をさらけ出していた。かなりのハイトーンで、ものすごい早口。テレビの歌番組で見せる「ぶりっ子」ぶりとは違って、ほとんど「素」の状態で収録や生放送に臨んだ。番組終盤になってからは、ハガキを読むときに落ち着いた感じを醸し出してきていたが、歌番組の時とはまったく異なる雰囲気を見せるラジオ番組は、ファンに「日常の聖子」「隣にいる聖子」を強く印象づけた。また、聖子自身が、このように振る舞うことができるラジオ番組を楽しんでいたようにも見受けられる。
 2005年9月21日、特別番組「全国民放AMラジオ47局統一キャンペーン あなたに伝えたい~言い出せなかった"ありがとう"」キャンペーンの一環として、松田聖子が「AM全局をラジオジャック」という番組が放送された。この番組では、早朝7:50から17:50まで1局当たり10分間、ライン中継や電話などで結んで全AM民放局に松田聖子が飛び入り出演した。

AM47局ジャック.jpg

 47局中45局が生出演で、すべての出演が終了するまでに休憩は9回。昼食の40分以外の8回の休憩では7回までが10分間という過酷なラリーだった。そしてこの厳しい仕事を受けた理由を、彼女はこう述べた。
 「デビュー前からラジオに育てていただいた、ありがとうの気持ちから」
 このデビュー前というのは、あの「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」のことを指している。ともすれば、女性タレントにすれば封印したい過去であるのが一般的なのかもしれない。しかし、聖子はこの「危ない過去番組出演」を隠すことはしなかった。隠すどころか、それに対して「ラジオに育てていただいた」とまで言ったのだ。
 彼女の営業戦略上の発言だったとしても、この発言は見事と言うしかない。これによって、聖子はAM全局からの好感度を一気に高めた。このとき、聖子はAM全局を手中に収めたのだ。とくに古巣のニッポン放送ではこれ以降「オールナイトニッポンGOLD」を不定期でほぼ1年に1回担当、蜜月状態が続いている。
 また、昨年10月からは月に1回「オールナイトニッポンMUSIC10」の担当を始めた。聖子はこの番組ではかつての早口で気軽な言い回しを封印。落ち着いた口調で語りかけるようになった。だが、基本的には饒舌であっけらかんとした部分は随所に出ていて、昔からのファンも古い時代の聖子を思い出せる内容となっている。
 このラジオ番組出演に対して、「神田沙也加との間を復活させるためにラジオ出演するのだ」という記事が出ていたが、それはかなり的外れだ。その程度のことでラジオ番組出演を決めるわけはない。ラジオ出演は言わば松田聖子の原点。ラジオ番組のブースで聴取者と向き合い、能動的に語りかけることに、彼女は楽しみを見いだしている。

オールナイトニッポン40周年.jpg

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完全休業ではなかった-妊娠中もラジオ番組に出演していた松田聖子 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子は85年の5月から87年の半ばごろまで休業に入ったとされているが、この間にも紅白歌合戦やレコード大賞の授賞式にはテレビ出演している。とくに神田沙也加の出産が86年10月1日であったことから逆算してみると、平均的妊娠期間が266日とすると受精日は1986年1月8日となり、85年の紅白終了直後に妊娠し、86年の紅白に出演できるように出産日を計画的に考えたのではないかと思われる。この計画的出産がうまくいって、聖子は紅白に連続出場を果たす。
 紅白だけでなく、86年年末のレコード大賞でもアルバム「SUPREME」がアルバム大賞を受賞。授賞式に出演した。この間のテレビ出演は6月9日に「さんまのまんま」に出演。さんまがお腹をさすって「男の子」だと予言した。聖子がさんまに「女の子だったらどうされます?」と聞くと、「引き取ります」と答えて笑わせた。おそらくこれ以外の出演はなく、松田聖子は妊娠期間は産休したことになっている。ところが、妊娠中にもかかわらず、実は86年6月半ばから下旬頃に、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」にも出演していたのである。
 この出演は、アルバム「SUPREME」を軸に展開する。ここでこの「SUPREME」について解説しておこう。このアルバムは、86年6月1日に発売された。売り出し直後に売り切れとなり、これが新聞等でも報道されて話題となった。結婚・妊娠があったにもかかわらず、聖子自身最大となるセールスを記録している。

SUPREME.jpg

 「SUPREME」は全編松本隆の作詞で、彼自身がプロデュースを行った。南佳孝、玉置浩二、来生たかおなどのヴォーカリストとしても活躍していた男性アーティストが作曲を手がけており、聖子自身が作曲したナンバーも1曲収録されている。アルバムとしてはニューヨークで収録した前作の「SOUND OF MY HEART」(85年8月15日発売)、松本隆が参加せず、、尾崎亜美、吉田美奈子、矢野顕子らの女性アーティストの楽曲を収録した前々作「The 9th Wave」(85年6月5日発売)に続く作品で、シングルカットされた曲が1曲も収録されていないのが特徴だ。その後紅白でも2回歌われ、コンサートでもスタンダードナンバーとなった「瑠璃色の地球」が収められている。
 このアルバムの制作に関しては、聖子の結婚・妊娠の影響を考えて、そのコンセプトに関して制作陣や聖子自身がかなり悩んだと、聖子が語っている。結局、従来路線を踏襲し、その発展系となるコンセプトを選択した。ジャケット写真も回数を重ねるごとに濃厚になっていった前作までの撮影方針を見直して、原点に返ったシンプルな形式にしたと、番組内で聖子は語っている。
 妊娠期間中に出演した「オールナイトニッポン」では、この「SUPREME」を紹介・宣伝する内容と、主婦である聖子がその適正をテストされるという内容などで進行した。「SUPREME」の紹介では松本隆がインタビューに答え、彼自身の肉声でそのアルバムコンセプトなどを語った。
 また、「主婦度テスト」では、聖子は8問中6問を正解して「普通の主婦」という認定を受けている。この主婦度テストでは、おもしろおかしな問いを聖子が読み上げるとバックでかすかな笑い声が聞こえて、防音ブース以外にもマイクロホンがONとなっていたような感じがする。もしかすると、音の具合から、スタジオではなくて、聖子の自宅などで収録された可能性もある。妊娠中ということを考えると、あり得る話である。また、読み上げるたびにガサガサという答えを書いた紙が擦れあう音が聞こえてきて、質問内容は聖子も初めて接するものだったことがうかがえる。
 この「オールナイトニッポン」は、放送20周年を記念した番組の一環として制作されたものだが、先ほども述べたように、妊娠期間中ということに配慮して、深夜帯の生放送ではなく、あらかじめ録音されていたのかもしれない。聖子は番組中で「お腹の赤ちゃんもびっくりしているかも」「あと5ヶ月で生まれる」などという発言をしている。おそらく、妊娠期間中に出演した番組というのは、「さんまのまんま」とこの「オールナイトニッポン」だけではないかと思われる。また、妊娠期としてはすでに安定期に入っていて、お腹もまだそれほど大きくはなく、出演のタイミングとしてはベストだった。
 語り口調は以前に放送された「松田聖子のオールナイトニッポン」と全く同じで、結婚・妊娠を経ても変わらない「素」な聖子と出会える。終始明るく、夫である神田正輝の話などもしていた。すでに爆発的売れ行きを示していた「SUPREME」を紹介していたので、聖子には一種の安堵感がうかがえ、安心して話している様子がわかる。
 妊娠中も出演していたことで、松田聖子の「ラジオ好き」が実感できる番組となっている。

 何度か書いているが、これらの内容の多くは、現在でも動画サイトにアップされている。ここに書かれている内容から類推して、例えば「松田聖子、オールナイトニッポン、20周年」などと検索するとヒットしてくる可能性がある。
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神田正輝と結婚前最後の生放送終了後、松田聖子を乗せたアウディ80は駒沢通りを突っ走った [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 神田正輝との結婚を控えて、松田聖子は一度休業する。そして最後のテレビ生放送となったのは、1985年4月20日の「8時だよ、全員集合」だった。ここで彼女は休業前のラストシングルとなった「ボーイの季節」を歌う。番組最後に、いかりや長介から「ご婚約おめでとうございます」と言われて、花束を贈られる。彼女は「どうもありがとうございます」と言いながら手を合わせてこれを受け取っている。
 TBSのGスタジオで行われたこの日の収録を終えると、彼女は家路につく。待ち構えていた報道陣が捉えたのは、アウディ80に乗った松田聖子だった。TBSの駐車場から勢いよく飛び出てきたアウディ80には、驚いたことに運転手と松田聖子しか乗っていなかった。マネージャーなどは同乗していない。彼女は後ろ座席の左側に乗っていて、右側には先ほど贈られた花束が置かれていた。報道陣が取り囲むと、彼女は微笑んでいる。
 ここでカメラは松田聖子が乗っているアウディのナンバープレートを映し出す。驚いたことに、モザイク処理はなく、そのまま読み取れる。当時は放映する際にナンバープレートを隠すなんてことはなかったのか。「品川59も5746」という文字がはっきりと読み取れてしまうのだ。

はっきりと映ったナンバープレート.JPG

 当時のアウディ80は「六本木のカローラ」と呼ばれていて、価格は250万円から300万円と、輸入車としては安価だった。よく見ると、松田聖子が乗っている2代目のアウディ80は三角窓がないので、1981年以降のモデルであることがわかる。 おそらくは1.6Lか1.8LのCLEかGLEだろう。
 そしてたぶん、このクルマは所属事務所のサンミュージックが用意したクルマだったのではないか。このアウディ80に、彼女は番組のフィナーレで着ていた服と同じ服装で乗り込んでいた。
 TBSから出たアウディ80は、飛ばし続けるが、いかんせん馬力がない。しかもあまり乱暴な運転をするわけにもいかないし、そこまでする理由もない。駒沢通りを走っていたアウディ80は、すぐに報道陣の車に追いつかれてしまう。交差点で止まっていたアウディ80に、報道陣が「聖子さん、聖子さん」と言って殺到する。
 聖子は前席シートに身を乗り出して、運転手と何事か話している様子。やがて助手席側の窓が全開となって、後ろの席から身を乗り出すようにして、聖子が話す。
 「ここでは何なんで、ウチの近所でお話ししますので。ここは道ですから…すみません」
 きちんと報道陣に対応して、仕切るくらいの力量を身につけていたらしい。

品川59も5746.JPG

 この後、自宅前で緊急の会見が行われる。ここで聖子は、「完全に引退ではなくて、また歌えるようになったら、また歌わせてください、っていうことなんです」と真摯に語っている。そしてこれはそのまま現実となった。ただし、最後のコンサートはこの後大阪城ホールで行われており、ファンの前で歌うのは、この日が最後ではなかった。
 また、聖子は「復帰しても、今までと同じように活動することは不可能だろう」と述べている。
 「だから、今までのような仕事のやり方は終わりです」と言う。
 「休業するのは、聖子さんが決めたのか」という問いには、「そうです」と答えている。
 また、結婚式を行う教会が近くのサレジオ教会に決まったことを記者たちから聞いて、聖子が驚く場面がある。本人が知る前に報道陣にはわかっているっていうのも、当時の報道が過熱していた証拠なんだろう。しかし、そんなに過熱していた状況なのに、帰宅するときに運転手と二人だけで、しかも普通にTBSの駐車場から出てきたのには、かなり驚かされた。おそらく自宅前での会見をするつもりでいたのだろうけれど、何となく牧歌的な雰囲気を感じてしまうのは私だけだろうか。
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「明るさだけでやってきました…」松田聖子の苦悩と悲しみ-2 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 2008年のある番組中に、松田聖子は笑いながらだが、「私は心配性なんだけれど、何か辛いことがあってもそれに引きづられることなく、この辛いことを乗り越えたらまた明日がやってくる、明日はきっと良い日になるというような気持ちでお風呂に入ってさっぱりして、ぐっすり眠るようにしている」と語った。ちなみに、松田聖子はいろいろな番組で「お風呂に入る」というのを一日の区切りやストレス解消法としてあげている無類の「風呂好き」である。
 このとき、「私、こう見えても辛いこともあるんですね。…ハイ」(笑いながら話すと、ここでスタッフから爆笑が起こる)「28年間みなさんに支えられて、皆さんの応援でここまで来ることができました。悪いことばかりではないので、みなさん明るく前向きに考えて頑張っていきましょう」と述べた。でもまぁ、いろいろあったんだろうね。

おんたまでのつらいこと.JPG

 2007年のNHKスペシャル「松田聖子」では、「ここが私の人生で一番辛いポイントとか、ありますか」と問われてこう答えている。
 「松田聖子という存在が一人歩きして、完全に別の『松田聖子』が作られていくというのは、ときどき怖いなあと感じる。(80年代終わり頃の週刊誌報道などもそうだったけれど)私のことを全然知らない人が、私のことをまるで知っているかのように書いたり、されますよね」
 「私はそれに対して1つ1つこれはそうです、これは違います、などと言う術を持っていないし、それをやっても仕方のないことなんです」と語っている。今でもそうだが、彼女は報道に対して一切何も反論しない。また、それに関する論評もしない。

アミノマイルドCM.JPG

 しかし、「松田聖子叩き」が過熱した80年代終わり頃、彼女はレポーターの求めに応じてこれらの報道に対して語っている。1988年か1989年頃と思われるこのインタビューでは、子供の神田沙也加を母親と神田正輝にゆだねて渡米したことに関して、記者から「いろいろとマスコミで報道されたけれど、いったい何がこんな風になってしまった原因だと思うか」と問われて、
 「私の方が何なんでしょうとお聴きしたいくらいなんですけど」と答えた。
 続けて、 「日本をあけていたというのは大きな問題だったとは思いますけれど…」としながらも
 「これは私たち家族や夫婦間で話し合って決めたこと」だと説明している。
 また、神田正輝が10歳年上で、彼がちょうど聖子の歳の時には自分は自由に活動していたので、そういったやりたいことをやらせたいと話したとしている。
 そして、レポーターと思われる女性が、「家庭や夫婦よりも仕事に比重を置いていると思われるが、何かそういう風に生き方を変えようと思ったのか」とたずねると、
 「海外で活動するという大きなチャンスがあった。それは是非やるべきだと彼が言ってくれたこともある。(活動することで)迷惑をかけるとは思うけれど、仕事を持っている一人の人間としてきちんとやりたいと考えて決心した」と答えている。
 また、「生き方というのは、それぞれ個人的に違うものだし、家庭によっても異なるものだ。何が正しいということは、決めつけられないのではないか。でも、家族あっての自分なので、やはり迷惑はかけないようにしたいと思っている。そういう中で仕事をやっているのだが、やる以上はきちんと仕事をしたいし、たくさんのファンの皆さんのためにも、良い音楽を作っていきたい」と語っている。
 そして最後に「ご心配をおかけしたことは申し訳ない気持ちでいっぱいです」と述べている。

1989年頃海外に行ったことに対してインタビューに答える聖子.JPG

 ここで松田聖子が語った内容は、今見るとおかしなことは全くなく、至極まっとうなことばかりだ。なぜこのような内容を鬼の首を取ったように報道したのか。今となっては首を傾げざるを得ない。私は当時の報道には何も興味はなくてこの内容を見聞きすることは全くなかったが、聖子が語るように、あくまで家庭内の問題であるだろうし、そういったチャンスを活かしたいという発想、そしてやるからには手を抜かずにやりたいと思うのは、当然のことのように思える。
 芸能レポーターらしき男性が「お子さんと離れてしまっているでしょ。この辺はどうですか」と聞く段に至っては、当時の芸能レポーターのレベルの低さに慄然となってしまう。こんな程度の者が報道し、またそれに乗せられていた視聴者もどういったもんだろかと思う。
 松田聖子は、おそらく「なんでこんなつまらないことに答えなければいけないのか」という思いでいっぱいだったことだろう。それでもあえて問われれば「お騒がせして申し訳ない」と言いつつ、自分の主義主張を貫いていたことに、ある種の畏敬の念すら抱く。
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「明るさだけでやってきました…」松田聖子の苦悩と悲しみ-1 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 2001年か2002年頃、ザ・ベストテンの復活番組に招かれた松田聖子は、「青い珊瑚礁」を歌う。このとき、歌う前に彼女は注目すべき発言をしていた。
「(「青い珊瑚礁」の時と)変わってないことがあるとしたら、どういうところだと思います?」
とたずねられた聖子は、
「はー、明るいところ…」
と答える。そして、
「明るさだけで乗り越えてきました…」
と笑いながら言う。
「ずいぶんいろいろなことありましたからね、それを乗り越えて」
という黒柳徹子の発言に
「はい」
と聖子は答えた。
 この発言にしばし考え込んでしまった。私が知る限り、トークやインタビューで彼女が「明るさだけでやってきました」という発言をしたのは、聞いたことがない。後にも先にも、「明るさだけでやってきた…」と語ったのは、このときだけだったのではなかろうか。
 おそらくは、80年代の郷ひろみとの交際や沙也加をおいての渡米に関するバッシング報道、神田正輝との離婚やその後の歯医者との電撃結婚と離婚、そして父親の死去など、ここまでの聖子には確かにいろいろなことがあって苦労もしたのだろう。それに関して論ずることはここではしないが、これらのことをひっくるめて、静かな語り口調で「明るさだけで乗り越えてきました」という彼女は、笑ってはいるがその顔にはある種の憂いがにじんでいた。
 遠くさかのぼれば、デビュー後の80年代前半、絶頂期の松田聖子の笑顔も、「明るさ=笑顔」を精一杯演出していたのではないか。そういえば、これとは異なる動画で、聖子は「水が怖い」と言っていた。そのとき、若い歌手らが出演するプールでの番組の過去画像が流れた。そこで彼女が笑っていたので、司会者が「笑っているじゃないの」と問いかけると、聖子は「あそこは笑わないといけないと思って…ともかく笑っていたんです」と答えた。無理をしてでも、ともかく笑っていたのだ。

いろんなことがありました.JPG

 この「明るさだけでやってきました…」という発言は、この動画の中で最も心に残った言葉だった。いろいろとあったことに、松田聖子は苦悩して、傷付いていると感じた。こういうわずかな心の隙間を掘り出してしまうのは、黒柳徹子の話術なのだろうか。おそらくはスルッと聞き流されてしまう一言だろうが、私は妙に気になった。それにしても、聖子のプロ根性はやはりすごいものがある。
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「あ、ごめんなさい」と謝る松田聖子の誠実 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子は生放送の歌でも、数々の失敗をやらかしている。
 84年11月にリリースされた「ハートのイヤリング」をザ・ベストテンで歌ったとき、彼女はセットに放たれていた子犬を踏んでしまい、驚いて歌が崩れてしまった。彼女は「ごめん」というような仕草をしてすぐに歌は元に戻る。しかしこれは、曲とは何の脈絡もないセットで子犬を放った局側の企画じたいに問題があった。松田聖子にはかわいそうな状況だったが、この時の光景は今でも覚えているらしく、印象深かった事件なのだろう。

ハートのイヤリングで犬を踏んだ.JPG


 「SweetMemories」では、一度英語の歌詞部分を一部飛ばしてしまったということがあった。疲れていたんだろうか。具体的には、
Don't kiss me baby we can never be
So don't add more pain
Please don't hurt me again
I have spent so many nights
Thinking of you longing for your touch
I have once loved you so much
の中で、「So don't add more pain」の部分が空白となった。彼女は笑顔でそのまま歌い続けたが、曲の最後に謝っているような仕草が見られる。

SweetMemoriesで歌詞が飛ぶ.JPG


 そして最も大きな間違いをザ・ベストテンで犯してしまう。ニュージーランドでの撮影を終えて帰国した直後に出演したこの番組で、彼女は「ロックンルージュ」を歌う。2番の歌詞で、
防波堤を歩くときジョーク並べて笑わせたの
黙りこむともりあがるムードの波避けるように
君がス・ス・スキだと急にもつれないで
時は逃げないわもっとスローにささやいて
となるところを、
1番の歌詞「ちょっとブルーに目を伏せた」が一緒になって、「もっとブルーにささやいて…」と歌ってしまったのだ。
 これにはさすがに歌いながら途中で気がついて、何回か目をパチクリとしたあと、
「あ、ごめんなさい」と左手を頭に当てながら、歌の途中で謝るのだ。
 非情にもカメラは聖子の顔をアップで捉えている。彼女は「しまった」という感じで右目をつぶってウインク状態になった。ここで歌としては完全に復活しているのだが、さらに彼女はもう一度右目をウインクして自分の失敗を悔やんでいる。その後も歌いながら何回か目をしばたたかせて動揺をあらわにしていた。しかし、動揺もここまで。
「気持ちは YES
横断舗道白いストライプの上」
になると歌も表情も完全に復帰する。しかし、「待ってて PLEASE」というところで、彼女は両目をつぶって失敗を悔やんでいるような仕草をしている。そして「 I WILL FALL IN LOVE」と歌い終わったあとで、もう一度右目をつぶってカメラに向かい、マイクをオフにしてはっきりと口の動きがわかる形で「ごめんなさい」と謝っている。
 さらに曲自体が終わった後、左手で口を覆って「あーやっちゃった」という感じの動きをする。そして左手を頭にやって、困ったような仕草をする。ここで司会者が笑いながら聖子を呼んで、「ニュージーランドにあれだけ長く行っていたから。大丈夫ですよ」と話しかける。聖子は「…すみませんでした」と天を仰ぐ。その後再び左手で頭をかきながら今度は左目をつぶって謝り続けるのだ。

あ、ごめんなさい.JPG

 曲の途中で「あ、ごめんなさい」と謝る姿に、彼女の誠実さを感じた。とっさのことで、ごく自然とそういう動きとなったのだろう。だが、そういうときに人の真実、人となりは見えてくるものだ。この謝る姿に、一種の感動すら覚えた。そして、なによりこの謝る姿が、実に愛くるしかった。
 しかし、「曲の途中で謝らずにそのまま平然と歌い続けるのがプロ」という意見もあるだろう。謝るのは聴取者に対して失礼だという考え方も存在するだろう。そうなんだけれども、ここで何回も「ごめんなさい」と素直に謝った聖子の人間性に、とても暖かいものを感じたのだ。自分がそういう立場に置かれることはないだろうが、そうなったときにとっさに「ごめんなさい」と謝れるか?この場面は、人間・聖子を浮き彫りにした内容として、極めて貴重なものだと思う。
 この動画は、実は私の松田聖子動画収集の動機付けとなった初期の頃のものだった。ここから松田聖子の真実を追いかけてみようと思い立って、80年代動画の収集が始まった。そのきっかけとなったのが、この「あ、ごめんなさい-ロックンルージュ」だったのだ。
 この「あ、ごめんなさい」動画はもう1つの側面も持ち合わせていた。彼女は口パクで歌ってはいない、という事実だった。この頃の歌番組では、一部の歌手に口パク疑惑があった。実際に、口パクだった歌手もあったようだ。とくにレコードと同じ歌唱状態の松田聖子には、根強い口パク疑惑が存在していた。しかし、図らずもこの「歌詞間違え事件」でこの疑惑は見事に払拭された。彼女は、透き通るような高音で実際に楽曲を歌っていたのだ。
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松田聖子のかすれた絶叫は意図したものだったのか [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子はぶりっ子だと言われていた。これは日常の自分よりも可愛い子ぶって歌っていたということからそう呼ばれることになったものだった。しかし、これはアイドルでは当たり前の自己演出で、彼女に限ったことではなかったはずだ。では、なぜ彼女はぶりっ子と呼ばれることになったのか。
 それはたぶん、「日常の自分」を歌以外の場面でたくさん出してしまったからではなかろうか。たとえば、当時のラジオ番組「夢で会えたら」や「オールナイトニッポン」などを聞いてみると、口調や声質がテレビとは違う聖子に会えた。逆に、ラジオでは本音というか、飾らない自分をさらけ出していたのだと言える。そういった無修飾の自分を晒すことに、彼女は躊躇がなかった。こういう聖子に引きつけられたファンも多かったことだろう。
 テレビ番組で歌以外の場面で「いじめられて」発するかすれ声の絶叫は、彼女が自己演出のために意図して発したものではないだろう。おそらくは自然に出してしまった声だったのだと思う。しかし、この自然な絶叫が彼女の魅力を奥深いものにした。
 そういった自分をさらけ出していたとき、彼女には一種の安堵感があったのではなかろうか。自己演出の際のかわい子ぶりっ子と対極となる自然な自分をそのまま出すことで、ぶりっ子となるときの緊張感を解放していたのかもしれない。

ジェットコースター2.JPG

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そのギャップに唖然-聖子が追い込まれたときの絶叫の声質 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子の声質の幅広さにも驚かされた。とくに、追い込まれたときの「絶叫」がハスキーで途切れ途切れになって、なんとも言えず官能的なのだ。普段歌っている伸びやかな高音からは想像できない声質で、落ち着いたしゃべり方になった最近ではほとんど聴くことができない。
 「風立ちぬ」を作曲した大滝詠一が語っているが、その当時は喉の使いすぎで聖子の声は荒れていて、レコーディングの際には気を使ったという。テレビ局やコンサートなどで引っ張りだこだった彼女は、仕事を断ることなどは全くなく、喉が疲弊しながらもともかく歌い続けていたのだろう。事実、デビュー直後の伸びやかな歌声が、この頃になるとやや抑え気味となっている感じもした。それを如実に示したのが、絶叫の際の声質である。
 まずはジェットコースターに乗せられた時の声。これは「白いパラソル」が1位を2回続けた際に、「ご褒美に何が良いですか」と聞かれた聖子が「何か乗り物にのりたい」と回答したことに始まる。次週、3回目の1位となったとき、長崎から帰京する途中で大阪・千里のEXPOLANDからの中継となった。ここからの中継となったのは、この遊園地での売り物だったジェットコースター「スペースサラマンダー」に乗るためだった。このジェットコースターは最初の落下後に直行360度ループを行い、その後らせん状に360度ループを2回行うという、当時としては極めて恐ろしいコースターだった。
 歌い終わった後、このジェットコースターに乗る聖子の様子は何回か復活版ベストテンなどで放送されているが、全部ではない。動画では歌の前のやりとりから歌い終わり、ジェットコースターを降りるまでが完全収録されている。発車後、まず180度ターンで彼女は「きゃー、いやー」という悲鳴を上げる。黒柳徹子が「今の声、聖子さんですよ」と解説するほどの声質なのだが、この後がすごい。
 同乗するアナウンサーが「高さが24mあるそうです」と説明した際には、「は、はい…」と気もそぞろで、目をつぶってはっきりと嫌だという顔をしている。もうほとんど顔はパニックになっている。上っている途中で「これ、どこを持っていればよいんですか?」と言っている時には、かなり目をつぶって「ぁぁー」という声を上げて嫌だという顔を続けている。
 コースターが水平走行に移った時には「あーいやー、あー、こわいよぉ。もーいやー」という声を上げる。この声がもうかすれた絶叫で、もはや途切れ途切れ。意図的に出したものではないだろう。続いて、「怖いよー、落ちるよー」とその絶叫は続く。360度ループの際には、「あー、怖い…」という以外、もう声が出ない。
 1回目の直行360度ループを過ぎた後、次のループに移る前に「もう怖いよう…」とかすれた声で叫ぶ。2度のらせんループではアナウンサーとともに「あーっ」と言うだけ。ループの最後でやはり「こわいよぅ、ぅぅ」と叫んでいた。最後に止まる直前に「んふふぅ」というような吐息のような悲鳴を漏らす。コースターというのは実に計算されていて、これ以上走ると人が限界を超えるという点をわきまえているらしい。おそらく彼女も限界なのではないかという感じで終了となる。
 同乗していたアナウンサーが「大丈夫ですか?」と聞くと、「…もう、怖かった」と笑いながらかすれ気味の声で言うのだが、この声質が実にハスキー。黒柳徹子が「怖かった?と聞くと、少しかすれ気味のハイトーンで「怖いです」と答えている。

ジェットコースター.JPG

 
 この普段の声とのギャップに、かなり笑う。彼女は「もう落ちそうなんです。飛んでるんです。」と言っていた。黒柳徹子が「また乗りたいですか?」と聞くとコースターから降りながら「いやいや、もういいです」で終わりとなる。

 声がほとんど出ていないのは、1982年夏のコント。今でもよくある、箱の中に芸人が入っていて、その中に手を入れるという内容だ。時期から見て、「小麦色のマーメイド」の頃と思われる。ここで手を何回か入れるのだが、その際の悲鳴が途切れ途切れの絶叫になっている。

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 「やーだ、これ何だか暖かいですよ…」と言って箱の中に手を入れるのだが、「はい、両手入れて…」と言われて「やーだこれ、やーだ」と言う声がハイトーンになって、聖子自身が「声が出なくなっちゃう…」と言うのだ。本人も、声が出なくなってしまうことを意識していた発言だ。それからは途切れ途切れのハスキーな声のオンパレード。「だって私の手、舐めるんだもの」「だって今舐めたもの」という声が絶叫になっている。

 ここでも、歌っている時の声とコントの時の声にギャップがあって、そのギャップが実に良い味を出している。もう今では聞くことができなくなってしまったこの絶叫だが、これに痺れた人も多かったのではなかろうか。そしてこれは本人が意図して出していた声質ではないような気がする。

 松田聖子はラジオ番組でも早口で声質が歌っている時とは違っていた。こういった声質や語り口調の違いが、よりいっそうのファン層を取り込んでいったのではないだろうか。
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