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松田聖子の芸能界入りに大反対だった父親が登場するテレビ番組 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子のデビューのきっかけは「ミスセブンティーンコンテスト」であったことはよく知られている。彼女はこのコンテストで優勝するが、父親の大反対と学則によって全国大会出場をあきらめる。その後、全国大会から1か月ほどたったある日、CBSソニーのディレクターだった若松宗雄氏からの電話によって、彼女は見いだされることになる。この間のいきさつは、またどこかで改めて書くことにしよう。ここではその大反対だった父親・蒲池孜氏が登場する動画を取り上げてみたい。
 1980年11月に放送されたおそらくフジテレビ系の番組では、久留米の実家を坂本九がたずねている。ちなみに、坂本九はこの後1985年8月12日の日航123便墜落で死去している。番組では孜氏のほか、母親の一子氏と叔母らしき人も映っている。

聖子自宅.JPG


 1980年11月の収録ということは、「青い珊瑚礁」の大ヒット直後で、「風は秋色」が出た直後ということになる。蒲池家の廊下を開放して撮影されたと見られる収録では、廊下に一子さんの手料理と思われる品々が並んでいる。このとき、坂本九が「ぶたれたんだって?」というような質問をしているのに対して、聖子が「芸能界に入るというときに…」と答える。
 これに引き続いて孜氏が、「あんまりだめだだめだと言っても、あのね、言うこときかないでしょう」と発言した。これを聴きながら彼女は、ちょっとはにかんだような苦笑いみたいな顔になった。孜氏は続ける。「だから、1回くらい殴られたかなぁ」「ダメだよってこう…」
 坂本九が聞く。「どこ殴ったんですか?」
 孜氏「ほっぺたを…」と言いながら手を上げて見せた。この発言を受けて、彼女は左ほほを押さえながら「もう、ふっとんじゃって…」と笑いながら言う。
 孜氏は「…つい力が入ってしまって」と言う。
 坂本九は松田聖子に、「覚えていますか?」と聞くと、彼女は「はい、覚えてますね、あのときね」と笑いながら答えた。
 坂本九は「これはダメだな、と思わなかった?」と聞くと、彼女は「いや、もうなんとかと思いました」とかなり笑いながら答えている。この間、一子氏は何も言わずに黙ってこのやりとりを聞いていた。
 この動画はわずか35秒ほどのものだ。

 これに先立つ9/18の「ザ・ベストテン」で、「青い珊瑚礁」が初めて1位となったとき、あの有名な「おかあさ~ん」と呼びかける場面がある。RKB毎日放送の玄関前にかけつけた母親の姿を見て、松田聖子が泣きながら2回そう呼んだのだ。この場面はその後の「ザ・ベストテン」の復活番組や思い出の名場面集などで放送されているが、この「おかあさ~ん」の後に、仕事で忙しかった父親と電話で対談した場面はほとんど放送されていない。
 電話口に出た孜氏は、「もしもし…」という聖子の問いかけに、「法子ちゃん。よかったね。よかったよかった。あのね、法子ちゃん、そんなに泣かなくてよいんじゃない。嬉しいことなんだから。いいね」と答えた。続いて、
 「今日はお母さんと一緒にそこに行きたかったけど、どうしても仕事の都合で行けなかったわけ。それで今ね、あなたが出るところを見ようと思っていたら、あなたが1位になったでしょ。もうお父さんも嬉しくてね、もうよかったね。」と言っている。さらに、
 「今ね、あなたと一緒に、去年ちょうど1年前かな、あなたと一緒に新宿でアイスクリーム食べたでしょ。あのときあなたが泣き出したから、お父さん法子ちゃんを一緒に連れて帰ろうかって言ったら、あなたが絶対頑張るんだって言うから…」ここで曲が始まり、父親との電話が終わる。聖子は「うわー」と泣き出してしまって、曲もボロボロだった。でも、泣くよね、あの場面では、ふつーの18歳なら。

父親との℡.JPG


 このときの新宿での父娘の会話は、CBSソニーの若松氏も「証言」している。1999年頃の古舘伊知郎がMCを務める番組に松田聖子が出演したときのことだ。このとき、若松宗雄氏からの手紙を古舘伊知郎が読み上げている。ちなみに、このときすでに孜氏は逝去されている(1998年没)。
 「思い起こせばあなたとの出会いは20年も前のことになりますよね。当時CBSソニーのディレクターだった私は、ミスセブンティーンというオーディションに送られてきたテープをチェックしていました。全国大会出場予定の何十人というテープを聴く中で、たいへんショックを受ける歌にぶつかったのです。」
 「それはまるで夏の終わりの嵐が過ぎた後、どこまでも突き抜けた晴れやかな青空を見たときのような衝撃でした。それは九州大会で優勝した蒲池法子、あなたが歌った『気まぐれヴィーナス』でした。これは絶対行ける、そんな直感が強烈な勢いで全身をかけ抜けたことをよく覚えています。」
 
若松氏からの手紙.JPG


 「ところが、すでにあなたは学校の規則とお父さんの反対により九州地区代表を辞退した後でした。どうしても気になり、諦めきれなかった私は、結局久留米まで出かけていって、あなたに会うことにしました。当日、ダークブルーのワンピースで現れたあなたは、非常に清楚で品があり、大切に育てられた良家のお嬢様という印象でした。」
 「なんとしても歌いたい、と話すあなたの熱意に触れて、なんとしてもデビューさせるぞと、私自身の気持ちも堅く固まりました。そしてこのとき、先日の直感は確信へと変わっていったのです。それからは芸能界入りに大反対のお父さんとあなたとの、長く厳しい葛藤の日々でしたね。」
中略
 「あなたが上京してきた日のことをよく覚えています。福岡から飛行機で来るあなたを出迎えに羽田空港まで行くと、お父さんに付き添われてピンク色のビニール傘と、小さなミカン箱を手に、心許なげに佇むあなたがいました。あこがれの世界に飛び込む歓びはつかの間、見ず知らずの土地での先の見えぬ将来に不安があふれていたのでしょう。」
 「事務所などへの挨拶を終えてお父さんが久留米へ帰る時間が近づくと、新宿の喫茶店であなたはシクシクシクシク泣き出しましたね。お父さんが見かねて『一緒に帰るか』とあなたにたずねると、あなたは涙をボロボロこぼしながらも、『帰りません』と小さく答えました。親子の別れの辛さと切なさに、私は言葉をなくして、ただ二人を見守ることしかできませんでした。あの日の風景は、一生忘れることはできないでしょう」
 「それから私は、東京の親代わりとしてあなたと深くかかわるようになりました。厳しいことも言いましたが、あなたはいつも本気で正面からぶつかってきてくれましたね。松田聖子とかかわり、プロデュースした10年間という年月は、とても深く密度の濃い充実した時間だったのです。昨年お父さんが他界され、あなたの人生もまた新たな時を迎えているように思います。色々なことがあるでしょうが、初心を忘れずに、その豊かな才能をこれからも伸ばし続けていって欲しいと願っています。それが最愛のお父さんへのなによりの親孝行となるでしょう。そのうちまた食事にでもいきましょう。よりいっそうのご活躍を心からお祈りいたします」
 古舘伊知郎は読み終わって「実感と情感あふれる手紙でしたね」と述べている。また松田聖子は手紙の途中からはっきりとわかる大粒の涙を流し、ほおに伝わるその涙を拭こうとはしなかった。この手紙から、新宿の喫茶店で父・孜氏、若松宗雄氏と同席し、彼女は泣いていたことが明らかになった。またそのとき孜氏は「一緒に帰るか」と声をかけ、彼女は「帰りません」と答えたこともわかった。
 父・孜氏との数少ないエピソードの中でたいへん印象に残る逸話である。

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