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自虐ネタが映えたコント-批判を自己表現として採り入れる精神風土が松田聖子にはあった [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子はコントやトークのセンスもかなり高かった。当時のサンミュージック社長であった相澤秀禎氏が言うように、今ファンが欲しているものは何かをその場で判断して、それにあった雰囲気作りをすることが上手だった。頭の良さと行動力を併せ持ち、抜群の歌唱力とプロらしい振る舞いとともにその場にあった高度な自己演出力が「松田聖子」という存在を作り出したのは間違いない。その力は、コントにもいかんなく発揮された。
 この頃の番組では、バラエティと言えばコントと歌が合体したような形式が多かった。そんな番組の中で、松田聖子はドリフターズやあのねのね、小松政夫などによくいじられていた。
 コントでは、よく「自虐ネタ」のようなものを演じている。本人からではなく、それは志村けんやあのねのねからの突っ込みがほとんどだったが、それがその場のアドリブであろうと、本人は、はにかみながらもニコニコしてそれに答えていた。またそうやってほとんど平然で答えることが、次の突っ込みへと繋がっていったのだろう。
 ここでは3つの事例をあげておこう。
 まずは松田聖子のものまねを一般視聴者が行うという番組。司会はあのねのねだ。ここで彼女はあのねのねの原田伸郎の求めに応じてCM「カプリソーネ」の一節を披露する。いかにも「かわいい」という露骨な感じで。これが終わった後で「自分でもぶりっこだと思います?」とたずねられると、少し間を置いて苦笑しながら、聖子は「はい、そうですね」と答えるのだ。場内は大爆笑になる。

ぶりっこだと思う.JPG


 当時のぶりっこは、かわいこぶっている、ということからきた言葉で、別に彼女に限ったことではなかったのだが、今から考えると聖子にとっては勲章のようなものだった。これを逆手に取った返しで、そのコミュニケーション能力の高さを示す事例となった。そして「ぶりっこ」という言葉は、これ以降ほとんどジョークでしかなくなってしまったのだ。
 
 次は「全員集合」の一場面で、志村けん演じる父親と聖子演じる娘とのやりとり。恋する男の元へ走ろうとする聖子が、父親を演じる志村けんからぶたれて泣き崩れる。このとき、志村けんが言うのだ。
 「その悪いクセ、治せ。泣くときには、ちゃんと涙を流せ」
 これにはさすがに聖子も「え、そこまで言うの?」という複雑な顔をした。だが、
「あっは」と言った後で、小さく「…はぃ-」と言って、手を口に当てて笑い流していた。会場は当然、笑いに包まれる。

ちゃんと涙流せ.JPG

 
 その時代を知らなかった人に説明しておくと、聖子は賞を取ったときに、「涙を流さずに泣いた…」いわゆる「空泣き」で漫才ネタとなってからかいの対象となっていた。各テレビ局が賞を設けるような時代だったから、いちいち各賞の受賞で涙なんか流していられないという下地はあったとは思う。ただ、松田聖子は神田沙也加に言わせると「感動屋さん」で、すぐに泣くのだという。そういう傾向はあって、80年代の生放送でも何かとよく泣いていた。それが空泣きであったとは画像から判断して到底思えない。
 もしかすると、「青い珊瑚礁」が初めて1位になったときに号泣して曲がまともに歌えなかったことを反省して、その後はむしろ泣かないように注意していたのかもしれない。プロ根性が徹底した彼女なら、そういったことも十分に考えられよう。 

 今回の最後は、志村けんとの「ドリフ大爆笑」でのコント。恋人同士を演じる志村けんと松田聖子が公園のベンチに座っている。とつぜん聖子が泣き崩れて、理不尽な理由で泣いた理由を、ああだ、こうだと説明するのだが、最後には志村けんが泣き崩れて、聖子の胸を指さしながらその理由をこう言い放つ。
 「だって、胸がぜんぜんない」
 松田聖子の胸が貧乳であるということをことあるごとにドリフやあのねのねはいじっていた。コントの台本にも書かれているくらいだから、本人も納得のうえのことだったんだろう。ある意味で見事な自虐ネタである。

全く胸がない.JPG


 2007年のNHKスペシャル「松田聖子」で、次のようなナレーションがあった。「1994年頃、彼女の行動が世間を驚かせます。報道を逆手に取ったCMに次々と出演したのです…」
 これは別に、そのとき始まったものではなかったと思う。すでにデビュー直後から、そのような「自虐ネタ」「反骨精神」の素地はあったのだ。世間の批判や冷やかし、からかいなどを自己表現として採り入れてしまうという精神土壌は、コントで培われたものだったのかもしれない。
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松田聖子は父親が2番目に怖い?一番こわいのは…… [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 父親が登場するトークが、もう1つある。「瞳はダイヤモンド」の話題が出ていて、セットがこたつになっているので、時期は1983年12月頃だろうか。舞台は「欣ドン」だ。ここで、欣ドン一家に招かれる形で来訪した松田聖子が質問に答えている。好きな曲ベスト3は?、好きな食べ物ベスト3は?と聞かれて、最後に「怖いものベスト3は?」とたずねられる。
 このとき松田聖子は、3位が地震で、2位が父親、1位が「なんと言っても週刊誌」だと答えている。答える際には、「父親はやっぱり怖いですね」と語り、「けっこうね、うるさいんですよ」とちょっと顔をしかめながら片目をつぶって世間話をするように話している。蛇足だが、右側の片目をつぶって話すのは彼女は得意で、歌うときや失敗したときにもよく右側の目をつぶって完璧なウインク状態になっている。左目を引き込まない完璧なウインク状態は最初から彼女はできていたのだと思われる。
 こうやって父親がうるさいと顔をしかめて語った後、「あ、見てるから…」と言って正面のカメラに向かってわざと笑顔を作って父親の機嫌を取るように笑いかけている。ここで萩本欽一が
 「僕もお父さんにあったことあるけど、おとなしそうな人だったよ…」と言うと、聖子は
「あはははー、そうですねー」と言って笑い転げる。彼女は萩本欽一が父親に会ったことがあったのを忘れていたようだった。ということは、何か萩本欽一が出ている別の番組に、父親と一緒に聖子は出演していたんだろう。それがなんであったのかは判明していない。

お父さんが怖い.JPG


 萩本欽一は「そうだよー。」と言う。聖子は「そうなんですよ、人前では、良いんですよ」
 萩本欽一はさらに「なんだか優しそうなお父さんよ。お父さんとは、あんまり会わないでしょ?」
 聖子は「そうですね。夜中に帰りますでしょ、そうすると階段の上り方が悪いって言うんです」
 萩本欽一「それ、どういう言い方なの?(優しいのか、怒ったように言うのか)」
 聖子は身振りを交えながら真顔で、「も-、階段上ると○×■□?※○×■□?※○×■□?※」と、久留米弁で父親が怒る様子をトレースする。萩本欽一は「何だかわかんねぇや」でこの部分のやりとりは終了する。
 この当時、父・孜氏は厚生労働省の外郭団体に勤務し、東京へ勤務地が変わっていて彼女と一緒に住んでいたのではないかと思われる。「思ったら後には引かない性格」だと自ら語る聖子だが、父親には頭が上がらなかったようだ。
 この後のやりとりで聖子は「1番怖いのは、やっぱり週刊誌ですね」と答えている。このときの言い方があえて声を低くして断定的に語っていること、そして「週刊誌」と語った後に会場内から同意の笑いが起きていることなどから、その当時の週刊誌のスキャンダル報道が過熱していた状況が垣間見られる。
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