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神田正輝と結婚前最後の生放送終了後、松田聖子を乗せたアウディ80は駒沢通りを突っ走った [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 神田正輝との結婚を控えて、松田聖子は一度休業する。そして最後のテレビ生放送となったのは、1985年4月20日の「8時だよ、全員集合」だった。ここで彼女は休業前のラストシングルとなった「ボーイの季節」を歌う。番組最後に、いかりや長介から「ご婚約おめでとうございます」と言われて、花束を贈られる。彼女は「どうもありがとうございます」と言いながら手を合わせてこれを受け取っている。
 TBSのGスタジオで行われたこの日の収録を終えると、彼女は家路につく。待ち構えていた報道陣が捉えたのは、アウディ80に乗った松田聖子だった。TBSの駐車場から勢いよく飛び出てきたアウディ80には、驚いたことに運転手と松田聖子しか乗っていなかった。マネージャーなどは同乗していない。彼女は後ろ座席の左側に乗っていて、右側には先ほど贈られた花束が置かれていた。報道陣が取り囲むと、彼女は微笑んでいる。
 ここでカメラは松田聖子が乗っているアウディのナンバープレートを映し出す。驚いたことに、モザイク処理はなく、そのまま読み取れる。当時は放映する際にナンバープレートを隠すなんてことはなかったのか。「品川59も5746」という文字がはっきりと読み取れてしまうのだ。

はっきりと映ったナンバープレート.JPG

 当時のアウディ80は「六本木のカローラ」と呼ばれていて、価格は250万円から300万円と、輸入車としては安価だった。よく見ると、松田聖子が乗っている2代目のアウディ80は三角窓がないので、1981年以降のモデルであることがわかる。 おそらくは1.6Lか1.8LのCLEかGLEだろう。
 そしてたぶん、このクルマは所属事務所のサンミュージックが用意したクルマだったのではないか。このアウディ80に、彼女は番組のフィナーレで着ていた服と同じ服装で乗り込んでいた。
 TBSから出たアウディ80は、飛ばし続けるが、いかんせん馬力がない。しかもあまり乱暴な運転をするわけにもいかないし、そこまでする理由もない。駒沢通りを走っていたアウディ80は、すぐに報道陣の車に追いつかれてしまう。交差点で止まっていたアウディ80に、報道陣が「聖子さん、聖子さん」と言って殺到する。
 聖子は前席シートに身を乗り出して、運転手と何事か話している様子。やがて助手席側の窓が全開となって、後ろの席から身を乗り出すようにして、聖子が話す。
 「ここでは何なんで、ウチの近所でお話ししますので。ここは道ですから…すみません」
 きちんと報道陣に対応して、仕切るくらいの力量を身につけていたらしい。

品川59も5746.JPG

 この後、自宅前で緊急の会見が行われる。ここで聖子は、「完全に引退ではなくて、また歌えるようになったら、また歌わせてください、っていうことなんです」と真摯に語っている。そしてこれはそのまま現実となった。ただし、最後のコンサートはこの後大阪城ホールで行われており、ファンの前で歌うのは、この日が最後ではなかった。
 また、聖子は「復帰しても、今までと同じように活動することは不可能だろう」と述べている。
 「だから、今までのような仕事のやり方は終わりです」と言う。
 「休業するのは、聖子さんが決めたのか」という問いには、「そうです」と答えている。
 また、結婚式を行う教会が近くのサレジオ教会に決まったことを記者たちから聞いて、聖子が驚く場面がある。本人が知る前に報道陣にはわかっているっていうのも、当時の報道が過熱していた証拠なんだろう。しかし、そんなに過熱していた状況なのに、帰宅するときに運転手と二人だけで、しかも普通にTBSの駐車場から出てきたのには、かなり驚かされた。おそらく自宅前での会見をするつもりでいたのだろうけれど、何となく牧歌的な雰囲気を感じてしまうのは私だけだろうか。
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「明るさだけでやってきました…」松田聖子の苦悩と悲しみ-2 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 2008年のある番組中に、松田聖子は笑いながらだが、「私は心配性なんだけれど、何か辛いことがあってもそれに引きづられることなく、この辛いことを乗り越えたらまた明日がやってくる、明日はきっと良い日になるというような気持ちでお風呂に入ってさっぱりして、ぐっすり眠るようにしている」と語った。ちなみに、松田聖子はいろいろな番組で「お風呂に入る」というのを一日の区切りやストレス解消法としてあげている無類の「風呂好き」である。
 このとき、「私、こう見えても辛いこともあるんですね。…ハイ」(笑いながら話すと、ここでスタッフから爆笑が起こる)「28年間みなさんに支えられて、皆さんの応援でここまで来ることができました。悪いことばかりではないので、みなさん明るく前向きに考えて頑張っていきましょう」と述べた。でもまぁ、いろいろあったんだろうね。

おんたまでのつらいこと.JPG

 2007年のNHKスペシャル「松田聖子」では、「ここが私の人生で一番辛いポイントとか、ありますか」と問われてこう答えている。
 「松田聖子という存在が一人歩きして、完全に別の『松田聖子』が作られていくというのは、ときどき怖いなあと感じる。(80年代終わり頃の週刊誌報道などもそうだったけれど)私のことを全然知らない人が、私のことをまるで知っているかのように書いたり、されますよね」
 「私はそれに対して1つ1つこれはそうです、これは違います、などと言う術を持っていないし、それをやっても仕方のないことなんです」と語っている。今でもそうだが、彼女は報道に対して一切何も反論しない。また、それに関する論評もしない。

アミノマイルドCM.JPG

 しかし、「松田聖子叩き」が過熱した80年代終わり頃、彼女はレポーターの求めに応じてこれらの報道に対して語っている。1988年か1989年頃と思われるこのインタビューでは、子供の神田沙也加を母親と神田正輝にゆだねて渡米したことに関して、記者から「いろいろとマスコミで報道されたけれど、いったい何がこんな風になってしまった原因だと思うか」と問われて、
 「私の方が何なんでしょうとお聴きしたいくらいなんですけど」と答えた。
 続けて、 「日本をあけていたというのは大きな問題だったとは思いますけれど…」としながらも
 「これは私たち家族や夫婦間で話し合って決めたこと」だと説明している。
 また、神田正輝が10歳年上で、彼がちょうど聖子の歳の時には自分は自由に活動していたので、そういったやりたいことをやらせたいと話したとしている。
 そして、レポーターと思われる女性が、「家庭や夫婦よりも仕事に比重を置いていると思われるが、何かそういう風に生き方を変えようと思ったのか」とたずねると、
 「海外で活動するという大きなチャンスがあった。それは是非やるべきだと彼が言ってくれたこともある。(活動することで)迷惑をかけるとは思うけれど、仕事を持っている一人の人間としてきちんとやりたいと考えて決心した」と答えている。
 また、「生き方というのは、それぞれ個人的に違うものだし、家庭によっても異なるものだ。何が正しいということは、決めつけられないのではないか。でも、家族あっての自分なので、やはり迷惑はかけないようにしたいと思っている。そういう中で仕事をやっているのだが、やる以上はきちんと仕事をしたいし、たくさんのファンの皆さんのためにも、良い音楽を作っていきたい」と語っている。
 そして最後に「ご心配をおかけしたことは申し訳ない気持ちでいっぱいです」と述べている。

1989年頃海外に行ったことに対してインタビューに答える聖子.JPG

 ここで松田聖子が語った内容は、今見るとおかしなことは全くなく、至極まっとうなことばかりだ。なぜこのような内容を鬼の首を取ったように報道したのか。今となっては首を傾げざるを得ない。私は当時の報道には何も興味はなくてこの内容を見聞きすることは全くなかったが、聖子が語るように、あくまで家庭内の問題であるだろうし、そういったチャンスを活かしたいという発想、そしてやるからには手を抜かずにやりたいと思うのは、当然のことのように思える。
 芸能レポーターらしき男性が「お子さんと離れてしまっているでしょ。この辺はどうですか」と聞く段に至っては、当時の芸能レポーターのレベルの低さに慄然となってしまう。こんな程度の者が報道し、またそれに乗せられていた視聴者もどういったもんだろかと思う。
 松田聖子は、おそらく「なんでこんなつまらないことに答えなければいけないのか」という思いでいっぱいだったことだろう。それでもあえて問われれば「お騒がせして申し訳ない」と言いつつ、自分の主義主張を貫いていたことに、ある種の畏敬の念すら抱く。
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