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「アイドル歌手は終わり」を宣言していた松田聖子 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 神田正輝との結婚を控えた1985年4月18日、松田聖子はザ・ベストテンに結婚前最後となる出演を行っていた。このとき、「シングルのレコーディングは?」と問われた聖子は、
「もう、終わりです……」と少し寂しそうに答えた。「ご出演はどうなります?」と聞かれた聖子は、
「ひょっとすると、これが最後です…」とも答えている。
 この後聖子は、こみ上げてくる涙をこらえながら「天使のウインク」を歌った。
 蛇足だが、曲の途中、1コーラスが終わると、聖子は震える声で「どうもありがとう…」とカメラに向かって言っている。

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 2日後の4月20日、最後の生出演を終えた聖子は自宅前で取材陣のインタビューに応じている。このとき聖子は、
「もう今までのような仕事のやり方は終わりです…」と答えている。ただし、どちらの回答の際でも、
「家庭の事情が許すようになれば、また歌は歌いたい」と語っていた。これがそのまま現実となったのは周知の事実である。
 この時聖子が答えた「今までのような仕事のやり方は終わりです」というのは、シングル盤及びアルバムのリリース周期と、テレビ出演の露出度のことをさしている。たとえば、シングル盤の場合、1980年4月1日の「裸足の季節」から1985年5月9日の「ボーイの季節」まで21枚をリリースしているが、この期間から計算すると89日ごとにシングル盤をリリースしたことになる。つまり、約3ヶ月ごとのシングル盤リリースとなる。

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 このリリース間隔じたいは、当時のアイドル歌手のリリース頻度と比較してもごく平均的な周期で、当時はこの3か月ごとリリースがアイドル歌手には当たり前だった。特筆すべきは、ご存じのように「裸足の季節」の12位、「青い珊瑚礁」の2位を除けば、リリースされた21枚のうちの19枚がオリジナルコンフィデンスで1位となっていたことだ。番組出演時はまだ「ボーイの季節」はリリースされていないので、18枚連続1位が達成されていたが、19枚連続1位もほぼ確実視されていた。
 聖子はこのようなリリース頻度の高いシングル盤やアルバムの制作は、この後はもう不可能だと言ったのだ。このとき、まだ聖子は再度歌うことになるかどうかも、はっきり明言はしていない。インタビューの内容を精査してみると、どうやらこの時点ですでに再度歌を歌いたいという意思ははっきりと読み取れるのだが、その際に
「これまでのような仕事のやり方は終わりです」
と、明確に語っている。これは紛れもなく、従来のアイドル路線との決別宣言でもあった。

 また、その時点で結婚の影響で従来の人気が維持できているかも本人には予測は付いていないため、どのように「再デビュー」を果たすかの青写真はまだ描いてはいなかっただろう。現実には、結婚と出産を果たしたあともシングル盤の売り上げ1位は26枚目となる「旅立ちはフリージア」まで継続した。しかし、結婚前の「宣言」どおりに、リリース間隔は長くなり、テレビ露出度も減って、結婚前とは異なった「仕事」の状況になった。また、アメリカ進出で「仕事」の内容も多様化し、これまでよりも大人の部分を強調するようになっていく。
 まぁ、23歳で結婚して再度歌の世界に戻ってくる時には25歳頃、そのときにはアイドルでは通用しないという心づもりが聖子にはあっただろう。また、すでに23歳時点で大人のバラードが歌えるシンガーに成長しているという自負もあったから、従来のアイドル路線と決別する気持ちは固まっていたと思われる。

 いずれにしても、結婚前最後のテレビ出演で「これが松田聖子最後の出演か?」と思ってしまったファンも多かったことだろう。だが、実際の言い回しをよく聞いてみると、聖子はあくまで「家庭優先でこれからは仕事をしていく。今までのようなやり方はもうしない」と言い続けていた。これまでのような仕事はしない、というのは、事務所などの意向に沿ってアイドル路線をひた走るのはもう終わりにする、ということだったのだろう。

 幸か不幸か、結婚・出産を経ても彼女の人気は持続した。やがて、30歳を迎える頃から、彼女自身がこの持続した人気の呪縛に捕らわれるようになる……。
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