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50プリウスのリアラゲージ付近での異音はショックアブソーバが原因だった [その他]

 2016年2月納車の50プリウスに乗っている。かなりの初期ロット品である。これまでにも、フロントウインドから遮音材がはみ出していたり、オートマチックハイビームの動作が不安定になったりするという不具合がたびたびあった。遮音材はみ出しは納めて治ったし、オートマチックハイビームの動作不安定も、どうやら1年以上が経過すると出なくなってきた。しかしこれは、気象条件が揃う機会がないからで、また不具合が発生する特定の気象条件などが揃えば、現出する問題となるだろうと思っている。
 乗ってから1年ほどたった昨年春。いつもはオーディオを聴きながら走るのだが、たまたま切っていたときのこと。右後ろのシート後ろあたりから、「カタカタ」という音がするようになった。最初は余り気にしなかったのだが、いちおうシートを倒して再セットしたり、シート周りの取り付け状態を確認してみたが、異音は消えなかった。なんだろ、そのうち徹底して調べなければならないなと思いつつ、つい先延ばしになっていた。
 昨年末頃から、音が次第に大きくなり、頻出する確率も高くなった。以前はオーディオを聴いていると聞こえなかったのが、オーディオを聴いていても異音は聞こえてくるようになってきた。
 しかも、停止から発進の際に、ごくわずかだが「ジャダー」のような現象がまとわりついてくる感覚がある。ほんとにわずかなのだが、新車時の走り始めのときと、どうも様子が違う気がしてきていた。
 そこでディーラーに持ち込んで、「1年くらい前からリアで異音がするが、だんだん大きくなってきていた。この原因はなんだろう?」と聞いてみた。
 まずは営業マンが助手席と後部座席に乗って、私が運転して異音確認。「たしかにします。シートの立て付けではないです」しばらく付近を走る間に、営業マンは耳を近づけてその場所を探ろうとする。
 「これは……中ですね。タイヤハウスの中から聞こえます。」それを聞いた瞬間、「これはやばいな」と思った。
 ディーラーに帰ってからメカニックが確かめに運転して近間を回ってきた。やはり発生する。しかも今度は、発生箇所をかなり特定しているような雰囲気がある。2時間ほど、待った。この間、私は「サスペンションなんてこと、ないだろうな」と、気が気ではなかった。しかし、テストを終えてやってきた営業マンは、「サスペンションです」という。「非常に珍しい部分が不具合になったね。今まで余り聞いたことがない」と言ったら、「そのとおりです」と営業マンも言う。
 故障が想定される部分の部品をすべて揃えて、サスペンションをすべて下ろして交換する必要があるので、修理日は9日後となった。
 修理は午後1時から始まった。終了したのは午後4時40分頃。異音の原因はショックアブソーバーで、ユニットごと交換したという。音が出ていたのは右側だが、左側もばらして確認したという。交換したショックアブソーバを見せてもらったが、確かにカタカタといっていて、軸がずれているような感じがする。
 交換後に、メカニックは合計3回、公道でプリウスを走らせて試験している。それぞれが別々のコースで、低速から中速、やや速い速度まで実際に走って音の出方を検証している。最後には団地内の周回道路を3回回って確認もしている。これは付いていたドライブレコーダーの画像で判明したものだ。修理後に3回も異なる担当者が試乗して異音確認を行うほど、状態は重篤だったのだ。

 このショックアブソーバーの交換で、リア付近からのカタカタという異音は皆無になった。また、走り出しなどの時に感じたジャダー風の後ろが一瞬遅れるような感覚もなくなった。プリウスは納車時の初期状態に戻ったと思われた。

 今までクルマに40年以上乗ってきて、サスペンション異常になった記憶はない。壊れない部品だと思っていた。ましてやショックアブソーバーが不具合になるとは、想像もしてこなかった。それが壊れた。今まで壊れるはずもないと思っていた部品が、壊れた。今回のサスペンション異常は、新車組み付け時に使われているショックアブソーバーの不具合によるものだ。もしかすると、もっと多くの事例がでているかもしれない。また、異音を異音と感じずに運転しているような一般の人もいるかと思う。
 リアから発するカタカタ音は、やばいです。していたらすぐに直しましょう。直すとプリウスは実に静かなクルマだと、また改めて感じられるようになるかもしれない。
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ハイビジョン試験放送時代にハイビジョン撮影されていたフジテレビの「北の国から95」 [その他]

 昨年の2017年2月19日、テレビのチャンネルをザッピングしていたら、「北の国からスペシャル95」をやっていた。内容自体は、何度か見ているし、わかっているから、「ああ、またやっているんだ」と、最初は思った。しかし、次の瞬間、「あっ」と言って思わず身を乗り出した。
 「これ、ハイビジョン撮影じゃないか…」
 あわてて途中からハードディスクレコーダーに録画し始めた。ハイビジョンに間違いない。ネットで調べてみると、フジテレビのHPにわずかに1行だけ、「95スペシャルからハイビジョンで撮影された」とあった。
 
 正直、すごく驚いた。1995年放送と言えば、撮影は1993年か1994年あたりからということになる。この当時、NHKですらハイビジョンは試験放送だった。1991年に始まった試験放送は、1994年11月25日から「ハイビジョン実用化試験放送」としてNHKと在京民放5局+WOWOW+朝日放送の共同チャンネルとなっている。まだそんな時代のことである。
 
 このとき、各民放が所有していたハイビジョンカメラは、テレビ朝日とフジテレビが7台、TBSテレビが3台、日本テレビが2台、WOWOWと朝日放送が1台、テレビ東京は0台だった。人気局だったフジテレビが7台を所有していたのは、その勢いから理解できるが、それでもわずかに7台。このうちの4~5台を、「北の国から」の野外ロケとしてEFP(エレクトロニック・フィールド・プロダクツ)カメラに用いていたのだ。
 EFPだけではない。3時間以上のこのドラマの編集は、すべてハイビジョンで行われていた。当時はまだ編集装置が潤沢にある時代ではない。この編集には、膨大な時間と費用が使われたと思われる。もしかすると、NHKのスタジオを借りていたとも考えられる。
 「北の国から95」の制作当時、この番組がハイビジョンで放送される可能性は全くといっていいほどなかった。それでも、この後のコンテンツ市場を見据えて、あえてハイビジョンで制作されていたのだ。
 
 これを通常の4:3地上波で放送するのにも、多くの苦労があったと思われる。もちろんハイビジョンそのままで放送はできない。16:9からダウンコンバートは必須となる。だが、ただ4:3にすればよいというわけではない。16:9の画角と、4:3の画角では、そもそもの映像制作基準が異なる。ハイビジョン画像を確認しながら、トリミングを繰り返し、時には画像の拡大などをしながら、4:3画像にダウンコンバートしたものと思われた。このダウンコンバートにも、多くの時間が必要だったろう。
 この「北の国から」の再放送でいつから「95」がハイビジョン放送されていたのか、私は全く知らない。しかし、23年たった今でも、この「北の国から95ハイビジョン」は、現在のBS放送と全く遜色のない高画質で放送されていた。細部の美しさ、奥行き感、ノイズのなさ。驚くほど美しい。
 横山めぐみ、大竹しのぶ、宮沢りえの女優陣が、素晴らしくきれいで美しかった。とくに宮沢りえの可憐さ、美しさ、かわいさは群を抜いていた。呆然と見つめてしまうほどだった。
 また、大竹しのぶは出演場面わずか11分間。4:3時代でも光っていたが、ハイビジョンとなってその存在感は圧倒的となった。高画質化が俳優の演技を深めるという好例だろう。例えば、田中邦衛と大雪が降る中、バスを待つシーンがある。ここで田中邦衛が振り返ると、大竹しのぶは両目から1粒だけ、涙を流しているのだ。
 明石家さんまが言っていた。「あるシーンで振り返ると、大竹しのぶがどーっと涙を流していてすごくびっくりした」 憑依型女優の面目躍如といえよう。だが、このわずかな涙は、4:3画面でははっきりと見ることができない。
 大竹しのぶが出るシーンは、たまたま大雪が降っていて、大粒の雪が田中邦衛と大竹しのぶの衣装に降りかかる。それが着いて、溶けていく様までがわかる。シーン切り替えでその雪が溶ける様が連続しているので、ワンカットで撮影されたことまで雪の様子でわかってしまう。もちろん、降りしきる雪の一粒一粒の結晶が、見えるのだ。
 「北の国から」はその後98年と2002年に制作され、いずれもハイビジョンで撮影されていた。2000年代初めには、まだ4:3画像のドラマが多く制作されていたことを考えれば、16:9でしかもハイビジョンで撮影されていたことは、今でも賞賛すべき事実だろう。

 フジテレビの全盛時代、しかも看板番組だからハイビジョン撮影は可能だったと言えようが、とくに94年に、果敢にハイビジョン撮影に挑戦した制作陣には、敬意を表したい。なぜって、それが23年たった今、「今時の当たり前の画質」として見られてしまうんだから。これは「先見の明」という言葉だけで表現するにはあまりに不十分な客観的事実なのではないかと思う。
 
 ネットで調べてみてわかったことだが、95年の「北の国から」がハイビジョンで撮影されていたことは、ほとんど何も書かれていない。もっと強調してもよいのにとすら感じてしまう。だが、その時代背景から考えると、あの時代にハイビジョンで長時間ドラマが撮影されていたことは、かなり驚くべきことがらなのではないかと思う。

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40年間使い続けているもう一つの24時間プログラムタイマーがある [その他]

 タイマーの話が出たので、もう一つ別の電源タイマーの話をしよう。こちらも先のダイヤルタイマーと同様に、40年以上前に開発された松下電工製の「24時間プログラムタイマー TE101」である。

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 このタイマーは、電源のON-OFFをピンを指定時刻に刺すことで実行する。赤と白のピンがあるが、違いはない。どちらかを刺しておくと、電源ON-OFFを繰り返す。つまり、2本を指すと24時間同時刻でON-OFFを繰り返すようになっている。指定時刻は30分刻みだ。「エアコンタイマー」と名付けているだけあって、容量は1500Wもある。時刻は商用電源の周波数に依存する。
 この24時間プログラムタイマーTE101の原型は、「オーディオタイマー」にある。TE101が販売される1年ほど前に、ナショナルが発売したのがON時刻とOFF時刻をピンで指定するオーディオタイマーだった。オーディオタイマーはONとOFFのピンが別個にあって、ON専用、OFF専用になっていた。指定時刻は10分か15分刻みで可能だったと記憶する。容量は500W程度だったと思う。時刻は商用電源に同期していた。
 このオーディオタイマーはよくできていた。何に使ったのかというと、その当時のカセットデッキでのFM放送のエアチェックだった。当時のオーディオマニアは、ほとんどが購入したのではなかろうか。この発想のもとで開発されたのが、エアコンタイマーTE101である。
 40年前のエアコンはタイマーがないものも数多くあって、そのような「クーラー」のON-OFFを自動的に行うことを目的として開発されたのが、このTE101だった。TE101を使うことで、毎日決まった時刻にエアコンを起動させ、終了することができた。また、常時ON,常時OFFの切り替えが簡単に行えたのも、TE101の特徴だった。
 しかし、エアコンに起動タイマーや就寝タイマーが搭載されるようになると、その需要は急速に失われていく。我が家でも、5~6年使ったあとに、このTE101はその役目を終えて退役した。

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 だが、TE101には別の役目が待っていた。家に置いてある照明器具を、指定時刻にON-OFFするという役割である。留守がちの家の場合、暗くなってから家に照明がともっていた方が、防犯上好ましいことがある。しかし、昼間から照明を付けておくのはもったいない。そこで白羽の矢が立ったのが、このTE101だった。
 エアコンタイマーからの退役後、しばらくしてTE101は毎日定時に照明をON-OFFする「防犯器具」として現役に復帰した。以来30数年間、この24時間プログラムタイマーは、稼働し続けている。通算するとほぼ40年近く、エアコンタイマー時代は夏場しか使用されなかったが、それ以降の照明器具タイマーになってからはほぼ休むことなく稼働している。動いていて当たり前と思っていたので意識していなかったが、考えてみれば40年近く、このTE101は動き続けているのだ。この間、時刻修正など意識してしたことはない。時刻もずれないのだ。
 このTE101を継承する電源タイマーが、現行ではWH3301BPというモデルであるようだ。

http://panasonic.jp/tap/p-db/WH3301BP_spec.html

WH3301BPの容量は、

≪タイマーに接続できる電気器具の最大消費電力≫
 ・ヒーター(抵抗)を用いた器具 (炊飯器、電気ポット、電気カーペット、電気ストーブ、パネルヒーターなど): 1500W
 ・トランスを用いた器具 (テレビ、ステレオなど): 800W
 ・モーターを用いた器具 (扇風機、換気扇、ポンプなど): 320W
 ・照明器具 (白熱灯・イルミネーションなど): 1500W
 ・照明器具 (蛍光灯スタンドなど): 100W
※こちらの商品はエアコン・クーラーには使用できません。

とあって、負荷となる電気器具によって最大容量が変わる。しかし、エアコン、クーラーには使えないとあり、以前のエアコンタイマーとは仕様が異なることを示している。もっとも、WH3301BPをエアコンに使おうという人は現在では皆無だろうと思うが……。

 以前のエアコンタイマーTE101のことをブログに書いておこうと思い立ったのは、現在の24時間プログラムタイマーがどのようなものがあるのかを調べていたとき、あまりに「すぐ壊れる」「使い物にならない」といった評価が多かったことにある。先のダイヤルタイマーにしても、この24時間プログラムタイマーTE101にしても、40年近くたった今でも、現役で壊れることなく使うことができる。この耐久性の高さは、特筆すべきものだ。
 ということで、先のダイヤルタイマー以外にも、24時間プログラムタイマーは40年たった今でも、持ち主にその存在を意識させることなく、動き続けている。
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Xperiaのいたわり充電は学習機能の幅が狭すぎて結局使われなくなった [その他]

 Xperiaの「いたわり充電」機能は、現在は使われていない。OFFにしている。その原因は、動作の不確実な点にある。おそらくは充電開始時刻が10分程度ずれているせいなのだろう、「いたわり充電」にならない日が1週間で2日ほどあるのだ。まったく同じ時刻に充電を開始しても、「いたわり充電」にならないときもあった。
 「いたわり充電」に関しては、動作の詳細な基準が明らかにされていない。どのようなリファレンスで作動するのかが、わからない。例えば、うっかり充電開始時刻を過ぎてしまって30分ほどたってから充電を開始したら、100%いたわり充電にはならない。あまりに動作基準が厳しいのだ。つまり、「学習基準」に、ファジーな部分がほとんどないのである。

 はっきり言って、「いたわり充電」の学習機能は、頭が悪すぎるのだ。おそらくは終了時刻の微妙なずれも関係しているのかとは思うのだが、「いたわり充電」になる基準値が狭すぎると感じる。この頭の悪さのために、メーカーは「いたわり充電」学習機能の詳細を明らかにできないのではないかとすら思ってしまう。
 「いたわり充電」にするために毎日同じ時刻に充電開始することと終了時刻を合わせることに汲々としなければならない。翻ってよく考えてみれば、毎日電源OFF-ONタイマーを使って充電終了時刻を揃えているわけだ。ならば、「いたわり充電」OFFにして2時間強で充電が終了するようにすれば、「いたわり充電」よりも簡単に満充電時間を減らせることになる。何もわざわざ「いたわり充電」機能を使う必要はない、と遅まきながら気づいたのだ。

急速充電3時間ストップ.jpg


 このようなタイマーを使わずとも、満充電時間の減少ができるのが「いたわり充電」のメリットだったはず。その学習のために電源OFF-ONタイマーを使うというのは、ある意味で本末転倒だったような気がする。むしろ、満充電時間を「いたわり充電」よりも短く設定できる電源OFF-ONタイマーの方が、電池寿命を延ばすという点では理にかなっている。
 こうして、「いたわり充電」機能はOFFになった。今は毎日充電から2時間で充電ストップするようにしている。これで充電は100%になる。「いたわり充電」の設定がどう行われているのかを探る意味では今回のタイマー使用は意味はあったのかとは思う。しかし、結果は「大山鳴動して鼠一匹」、結局は「いたわり充電」機能を見限ることになった。結論から言おう。「いたわり充電」機能は使えない。毎日定時に寝て、定時に起きる人しか、使えない。しかし、そんな人はおそらくかなり希ではないか。少なくとも私の環境では使えない。というか、電源タイマーがあれば「いたわり充電」以上の機能を発揮できる。今後は外泊時などでも、極力電源タイマーを持ち歩くことになるだろう。そういうことに気づかせてくれた意味は、「いたわり充電」にはあったかもしれない。
 ナショナルの電源タイマーが、40年以上にわたり基本デザインを変えずに販売されていることについて、少数ながら驚いたという意見をいただいた。私も今回の件でこの古い電源タイマーを再使用するまで、現行商品であることは知らなかった。こんなことを気づかせてくれたのも、「いたわり充電」のおかげといえるのかもしれない。
 
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Xperiaの「いたわり充電」を40数年前のエアコンタイマーで自動学習させてみた [その他]

 私は昨年2017年11月15日にXperia XZ1(SO-01K)を購入した。当初はこのモデルに「いたわり充電」機能があることに気づかなかった。半月ほどして「いたわり充電」機能があることに気づいた。
 「いたわり充電」機能は、Vaioやウォークマンなども搭載する。Vaioの場合は、満充電ではなく、80%充電と50%充電のどちらかが選べる。ウォークマンの場合は、おそらく80%充電程度になっていると思われる。いずれも満充電にした場合のリチウムイオンバッテリーの劣化を抑制し、その寿命を長くするという目的で使われる。
 2016年モデルから搭載されたXperiaの「いたわり充電」機能は、少し変わっている。より自動化が進み、長く充電状態にある時間帯をスマホが自動検出し、その充電時間帯を学習。充電終了時間に合わせて、満充電時刻を調整するというものだ。
 具体的には、充電開始時には急速充電を行う。90%まで充電したらいったん充電を停止。あとは学習した充電停止時刻に100%になるように再充電を行うという仕組みだ。満充電になったあとの過充電を防止し、それで電池の劣化を防ごうというわけだ。
 この「いたわり充電」は完全自動化されていて、ユーザーが終了時刻などを設定することはできない。また、どのような条件で時刻検出を行うのかも明示されていない。唯一、ソフトバンクの同型機種の「いたわり充電」の説明で、「時間帯検出には7日間以上かかる」という表記があった。ドコモとauの取扱説明書には、この「7日間ルール」の表記は存在しない。
 私は、充電開始時刻が午前1時から2時頃、充電器を抜くのは朝6時半から9時頃と、毎日同じではなかった。どうやら「いたわり充電」の終了時刻検出は1時間程度の誤差があってもその傾向は学習されず、「終了時刻バラバラ」と判断されてしまうようで、購入後2ヶ月がたっても「いたわり充電」機能は発動されなかった。
 それでもしかたがないと思っていたのだが、なるべくバッテリの劣化は防ぎたいし、せっかくの「いたわり充電」機能が学習されないというのには悶々としていた。いったい、どのような条件下で時間帯を検出しているのか?
 考えてみると、それほど難しいことをしているわけはない。一定以上の充電時間がある場合に、充電停止時間を検出し、それがある程度の幅なら「同一時刻終了」=「いたわり充電終了時刻」にしているのではないか。とすれば、終了時刻を±15分の間に納めれば、「いたわり充電」が始動されるのではないか。つまり、翌日に向けての充電の場合、最も重要な検出ファクターは「充電終了時刻」になるはずだ。当たり前のことなのだけれども、充電終了はACアダプタを抜く必要はない。電源を切ればよいだけだ。
 そこで思いついたのは、あり合わせの古い「エアコンタイマー」を使って、充電終了時刻を揃えるということだった。このエアコンタイマー、まだエアコンが「クーラー」と呼ばれていた今から45年ほど前にクーラーの起動、終了時刻を調節するために購入したものだ。松下電器産業製で、今や懐かしい「ナショナル」ブランドである。タイマーは商用電源の周波数に同期する。

エアコンタイマー全景.JPG


エアコンタイマー接続部.JPG


 このエアコンタイマーで充電終了時刻を毎日±15分以内にして様子を見ていた。充電終了時刻を揃えるようになってまさに7日目。ついに「いたわり充電」が始まった。グラフを見ると、毎日の充電終了時刻の1時間前には満充電となっているようだ。
 写真は「いたわり充電」が始まる前の「全域急速充電」状態と「いたわり充電」の状態。

急速充電.png


いたわり充電.png


 この「いたわり充電」、装備が始まった2016年モデルと2017年モデルとでは、説明の表記が異なる。2016年モデルでは詳しく「90%で一旦停止してから、充電終了時刻に合わせて充電100%となる」と説明されているのだが、2017年モデルでは「充電時刻を調節する」という簡単な表記しかない。

昨年モデルのいたわり充電説明.jpg


いたわり充電の説明.png


 おそらく、全自動化したのでユーザーに対する面倒な説明は不要、とメーカーでは判断したのだろう。ユーザーに面倒な操作や思い違いをして欲しくないという配慮なのかもしれないが、「いたわり充電」に関する動作の詳細の説明があまりに少な過ぎるような気がする。また、電池を持たせるためなら、「80%充電」で充電停止にするVaioの「いたわり充電」機能があってもよかったような気がするし、手動で充電終了時刻を設定するような機能にはできなかったのだろうか。おそらく、万人が使うスマホなので、ユーザーからの誤解があると困るという判断でこのようになったのだろう。
 何はともあれ、「いたわり充電」が始まった。「いたわり充電」が開始された後も、もちろん老兵のエアコンタイマーで充電終了時刻を毎日揃えるようにしている。エアコンタイマーは、先に書いたように40数年前のクーラー時代に使っていたもので、今もこのような10時間以上の電源ON/OFFができるタイマーが存在するのかどうかはわからない。しかし、クーラー全盛期のこのタイマーが、40数年後にスマホの充電終了時刻の統一に使われるとは、設計者も含めて、誰もが想像もできなったことだろう。

 ●初出時、「現在はエアコンタイマーのような10時間を超える電源タイマーはあるかどうかわからない」と書いたが、その後調査すると、現在でも全く同じ形状の製品がパナソニックから販売されていた。WH3101、WH3111で、ホワイトとブラックがあるようだ。価格は1,800円~2,800円くらい。名称は「エアコンタイマー」から「ダイヤルタイマー」に変わっている。ちなみに、エアコンタイマーの時代は型番はTE321だった。
 また、松下電器産業製としていたが、エアコンタイマーの時代は松下電工製だった。現在のダイヤルタイマーでもエアコンタイマー時代の仕様を引き継ぎ、容量は1500Wと大きいのが特徴。40年近く前の製品がほぼそのままの形状と仕様で販売されていることは、その完成度の高さを物語る。こういう製品を作り続けるパナソニックは素晴らしい存在だと感じる。
 この程度の価格であれば、「ダイヤルタイマー」で充電時間の調整をして、リチウムイオンバッテリの長寿命化を図るのもスマホユーザーとしてはありだろう。
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番外編-2 松田聖子が活躍した時代の放送技術、オーディオビデオハード界の背景 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 松田聖子が活躍した80年代前半は、どんな時代であったのか。ここでは、放送技術と一般家電であるオーディオビデオ製品の流れから、その時代背景を探ってみよう。

(1)1インチVTRの規格統一
 1977年12月にソニーがSMPTEヘリカルスキャン1インチVTRタイプCフォーマット、通称「Cフォーマット」を発売する。1インチVTRにソニーの規格が採用され、事実上の業界標準となった。これ以降、放送界は1インチVTRの導入を加速化する。イニシャルコストも安く、ランニングコストも安価な上、高画質だったCフォーマットは瞬く間に各放送局に導入された。
 松田聖子が登場した1980年には、Cフォーマット1インチVTRは各放送局に導入されていた。現在、録画撮りの音楽番組でも、またライブの音楽番組であっても、それを高画質で再び見られるのは、このCフォーマットの普及があってこそと言える。

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(2)撮像管の進化
 70年代後半、NHKは日立と共同でカメラ用撮像管としてサチコンを開発し、テレビカメラに搭載していた。一方の民放各局は、オランダのフィリップス社が開発したプランビコン管を搭載したテレビカメラを採用していた。プランビコン管は松下電器がフィリップスから技術導入して国内製造を行っていた。
 サチコン管はノイズが少なく、発色も良いという特徴を持っていたが高価だった。一方のプランビコン管は国内製造でより改修され、独特の艶色系の発色をするようになり、ノイズも低減した。プランビコンの特色は独特のコメットテールを引く点にあった。スタジオ照明などの明かりを捉えた際にレインボーのコメットテールを長く引いているのは、プランビコン管である。
 松田聖子が登場した1980年頃には、プランビコンはサチコンを凌駕する性能を持つようになり、CフォーマットVTRと組み合わせてテレビ放送の高画質化に貢献した。やがて80年代半ばになると、ダイオードガンプランビコンの登場で撮像管の画質は頂点に達する。そして90年代後半に撮像体は撮像素子の時代を迎える。
 サチコン、プランビコンともに放送画質の向上に大きく寄与した撮像管だった。

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(3)トリニトロン プロフィールの登場
 1980年にソニーはトリニトロン管のプロフィールを発売する。ソリッドなデザインでオーディオセットとの組み合わせを意識したコンセプトに、業界は騒然となった。それまでトリニトロン管は20インチまでしか製造できず、大型管は無理だと囁かれていた。それが27インチの大型管の登場で、「大型管テレビ+AVライク」なデザインを採用したテレビが業界をリードするようになっていく。
 プロフィールにはチューナとスピーカーは内蔵されていない。別売りのチューナーでは、映像系と音声系を同時に増幅するインターキャリア方式ではなく、別々に増幅するスプリットキャリア方式を採用し、音声からバズ音を追放した。
 プロフィールはテレビの大型化、高画質化、高音質化の先鞭となった。
 また、テレビ放送のステレオ化が実施されたのは意外と遅く、1982年からである。

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(4)ウォークマンの登場
 1979年、初代ウォークマンが登場する。井深氏自らが企画したという異端児は、瞬く間に世を席巻した。以後、ウォークマンはカセットやCD,MDと媒体を変化させながら、世界中に普及することになる。
 ウォークマンの登場により、オーディオは完全に「個」の存在となった。音楽は外へ持ち運べるようになり、どこでも聴けるようになった。自分だけのアイドルが楽しめるようになったのだ。

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(5)CDの登場
 1981年にCDのテスト版が発表された。1982年に50枚のCD発売により、本格的なCD時代を迎える。ランダムアクセスが可能で、S/Nがよく、スリ減りの心配もないCDは、それまでのアナログ盤と置き換わり、オーディオ音源の主流となっていく。

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(6)Hi-Fi VTRの登場
 1983年、家庭用1/2VTRにHi-Fi音声が付くようになった。スイッチングノイズの発生という難点はあったが、従来の音声が長時間録画により極めて狭帯域、低S/Nとなっていたため、上級機に導入されて広く市場に普及した。VTR音声の改善という点では、1983年の登場はやや遅きに失した感があったが、音楽録画の音質向上には大きく貢献した。

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(7)VHSとベータの戦い
 技術背景には直接の関係はないが、1970年代後半にVHSとベータは家庭用VTRで熾烈な競争を繰り広げていた。ベータの劣勢が決定的となったのは1984年。それまでベータ陣営にあった東芝、NEC、サンヨー、ゼネラルなどもVHSの販売に切り換えていく。しかし、3/4インチのUマチック、その後の8ミリVTRなど、ベータマックスと同じUローディングを採用したVTRの画質が優れていたのは明白で、必ずしも技術的優位にある方式がデファクトとなるわけではないという事実を立証した事例となった。
 松田聖子もベータマックスのCMには多数出演したが、すでに孤高の存在となりつつあったベータの劣勢を跳ね返すことはできなかった。

(8)カラーテレビ契約90%(1980年)
 NHKのカラーテレビ契約は1975年に全契約の83%となった。1980年には90%となっている。ちなみに、1977年10月1日にNHK教育放送が全カラー化を達成している。
 1980年になると、2台目、3台目の13~14インチテレビが各家庭に普及し始めた。ダイエーの「BUBU」を皮切りに始まった13~14インチテレビの低価格化がいっそう促進されたためだ。この頃の13~14インチテレビは、4万円から販売されていた。

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 2台目のテレビは、子供部屋や高齢者の部屋に設置された。同時に、テレビを一家で見るという習慣がだんだん薄れていく。子供がアイドル番組を自室で見る、という風景も日常的になっていく。80年代アイドルが活躍する素地は、こんなところにもあった。

 このような放送界、オーディオビデオハード界の時代背景は、松田聖子に限った話ではない。すべてのアイドル歌手や、その他の歌手も、またテレビドラマですらその恩恵に浴したといってよいだろう。しかし、80年代前半を駆け抜けた松田聖子は、このような時代背景を巧みに活用してしたのだと言えはしないか。自分も知らないうちに……。

 この時代背景分析は、極めて独善的なものだ。批判や叱咤する向きも多かろう。しかし、松田聖子という希有な歌手が80年代前半を猛烈な勢いで席巻したとき、こんな背景がそれを後押ししたのではないかと、私は思ってしまうのだ。
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可憐さの中に圧倒的歌唱力を見せつけた松田聖子の伝説的ワンマン番組 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 80年代前半の松田聖子のテレビ番組で、「伝説的番組」として語られる作品がある。すでに多くの方がご存じの「ザ・スター 振り向けば……聖子」である。

 「ザ・スター」は、1981年から1983年にかけて、フジテレビが関東ローカル枠で深夜に放送した音楽番組である。1ヶ月に一人の歌手にスポットを当てて持ち歌やカバー曲をワンマンライブのような感覚で歌わせるという趣旨だった。 「ザ・スター」には美空ひばり、北島三郎、五木ひろし、森進一、五輪真弓、森晶子、岩崎宏美ら20人ほどの歌手が出演した。詳細な資料がないので断定はできないが、この「ザ・スター」の出演者中、松田聖子はおそらく最年少である。

 「振り向けば、……聖子」のスタッフロールによると、プロデューサーはフジテレビの一時代を築いた名物プロデューサー高田明侑(はるゆき)氏。当時47歳。業界内では「めいゆう」さんと呼ばれて親しまれた。高田氏は出演者を非常に大事にする人だったと言われている。氏はすでに2011年に故人となった。ちなみに、高田氏は1974年から1980年まで加賀まりこの夫だった。
 ディレクターは現フジパシフィックミュージック代表取締役社長の上原 徹 氏。上原氏は1968年に「小さな日記」というヒット曲を放ったフォー・セインツのリードボーカルを担当し、その後フジテレビに入社、「夜のヒットスタジオ」「スター千一夜」「君こそスターだ!」「ザ・スター」などを制作した。番組制作当時は35歳だった。
 構成作家は、今や何の説明もいらない、あの「秋元康」。番組制作当時は24歳だった。
 制作の中心となる技術スタッフは主にフジテレビ系番組制作会社株式会社ニューテレスが担当した。
  
 2012年、フジテレビの倉庫からこの「ザ・スター」の映像VTRが見つかったという。このVTRを元に美空ひばりの劇場公開用映画が制作され、2013年10月19日から2014年9月13日まで19回にわたり「ザ・スター リバイバル」という番組がBSフジで放送された。しかし、この「ザ・スター リバイバル」では松田聖子の「振り向けば、……聖子」は紹介されていない。

 「振り向けば、……聖子」は1983年3月1日から29日にかけて、5週にわたって放送された。放送期間中に聖子は21歳の誕生日を迎えているので、収録は20歳の時に行われたことになる。番組中では、歌だけでなく、本人だけが出演したコントやトークが曲の間に披露された。後述する圧倒的歌唱力を見せつけた持ち歌やカバー曲とともに、彼女が持つエンターテイメント性を遺憾なく発揮した番組だった。

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 持ち歌の演奏はすべてカラオケ音源が使われた。番組エンディングには、持ち歌の一部とカバー曲がザ・コンソレーションの演奏で歌われた。ザ・コンソレーションは松田聖子のライブ用に編成されたバックバンドで、テレビ番組出演の際に生演奏が必要なときは出演することがあった。コーラスもまたライブの際に組んでいたコールアカシアの松田聖子専任チームと思われる。
 
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 当時の松田聖子のライブステージは、音楽的に極めて完成度の高いものだった。それは、アイドルという枠を完全に超えた域に達していた。伝え聞くところによると、ライブの前2週間くらいから、バックバンドやコーラス、スタッフは合宿してチームワーク性を高め、研鑽を積んだという。ライブの音楽性は、そういった目に見えないバックボーンから生まれていた。

 当時の松田聖子の音楽性は、とてもアイドルなどという範疇では語れないものだったが、「アイドル」という形容詞が彼女の歌唱力の高さに一種のベールを掛けてしまったことは否めないだろう。また、彼女自身も「アイドル」という立場を受け入れて、その流れに身を委ねていたことも確かだ。しかし、松田聖子は決して主体性がなかったわけでない。このころから、自分のステージではその音楽性を主張するようになっていたと思う。

 「振り向けば、……聖子」で歌われた楽曲は、様々にカットされて動画サイトにあふれている。撮影は手が込んでいて、フジテレビが力を入れていたことがわかる。持ち歌はもちろんよいのだが、しかし、なんと言ってもその圧倒的歌唱力に舌を巻くのは、エンディングの部分で歌われるカバー曲である。このカバー曲は、CD化はされていない。つまり、このカバー曲を聴くためには、アップされている動画を見るしか、方法はない。

 そのカバー曲の中でも最も素晴らしいのは、「きみだけのバラード」だろう。この作品は、この番組が放送された前年、1982年の東京音楽祭でグランプリを受賞している。「きみだけのバラード」は、アップデータが何回も削除されても、また誰かが投稿して動画サイトから消えることのない珠玉中の珠玉作だ。その他、「グッバイ・ガール」、「エンドレス・ラブ」のほか、「HERE I AM」の4作品は、彼女自身の歌唱力もさることながら、ザ・コンソレーション、コールアカシアとの共演が心を動かす高度な音楽性を放っている。

きみだけのバラード
I Don't Want To Lose Your Love/John O'Banion(1982)

グッバイガール
Goodbye Girl/David Gates(1978)

エンドレス・ラブ
Endless Love/Diana Ross & Lionel Richie(1981)

Here I am/Air Supply(1981)

 最後に、複雑な権利関係があって、不可能なことはわかっているが、この「振り向けば、……聖子」の完全版をDVD化してほしいと、切望する。私たちの世代だけでなく、その後の世代、またこの放送があった後に生まれた世代にも、訴えかけるものがあるはずだ。昭和の歌が見直されている現在、なにより、「アイドル歌手」松田聖子がこんなにすごい歌を歌っていたんだということを、もっと世の中は知るべきだ。

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番外編-1 世界初のCDタイトル50枚中で最年少だった20歳の松田聖子 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 1982年10月1日。世界で初めてCDプレーヤーがソニーと日立(Lo-Dブランド)から発売された。同時にCBSソニーから世界初のCDタイトル50枚が発売された。メータ指揮のニューヨークフィル、 中村紘子やビリージョエル、サイモンとガーファンクル、 マイルス・デイビスなどと並んで、松田聖子のアルバム「Pineapple」(35DH3)もリリースされた。
 最初のCD50枚のうち、国内制作のニューミュージック系・歌謡曲系のアルバムはEPICソニーを含めて17枚。このうちの1枚が松田聖子の「Pineapple」だった。このとき松田聖子は20歳。世界初のCD50枚の栄誉を与えられたアーティストの中で、松田聖子は最年少だった。

 「Pineapple」のアナログ盤は同年5月21日のリリース。次回の「Candy」のリリースは11月10日だったので、文字通りの最新盤だった。ベスト盤が選択されなかったのは、当時の松田聖子の勢いが強かったので、過去のイメージとなるベスト盤をあえて避けたものと思われる。
 当時のCDは西ドイツのポリグラムとCBSソニーの静岡工場でしか生産できず、国内盤はもとより、アメリカのCDも日本で作られていた。松田聖子のCDアルバムはそれからも精力的に制作され、次の「Candy」 (35DH19)は12月21日、その次の「ユートピア」(38DH39)はアナログ盤1983年6月1日リリースに対して6月22日、次期作「Canary」(38DH62)がアナログ盤12月10日に対して12月21日のリリースとなった。
 その後1984年6月10日リリースの「Tinker Bell」(32DH100)以降からアナログ盤・CD同時発売となった。

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 CDの生産はCBSソニーの静岡工場において24時間体制で行われている。最初の50タイトル以降もすぐに多数のCDが発売されている。しかし、「世界初のCD50タイトル」に名を連ねたことには、特別の意味がある。今でも、この「世界初のCD50タイトル」は、語り継がれているからだ。2番手ではダメなのだ。これにまだデビュー満2年目で20歳の松田聖子が含まれていたことは、まさに金字塔と言えよう。
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「アイドル歌手は終わり」を宣言していた松田聖子 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 神田正輝との結婚を控えた1985年4月18日、松田聖子はザ・ベストテンに結婚前最後となる出演を行っていた。このとき、「シングルのレコーディングは?」と問われた聖子は、
「もう、終わりです……」と少し寂しそうに答えた。「ご出演はどうなります?」と聞かれた聖子は、
「ひょっとすると、これが最後です…」とも答えている。
 この後聖子は、こみ上げてくる涙をこらえながら「天使のウインク」を歌った。
 蛇足だが、曲の途中、1コーラスが終わると、聖子は震える声で「どうもありがとう…」とカメラに向かって言っている。

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 2日後の4月20日、最後の生出演を終えた聖子は自宅前で取材陣のインタビューに応じている。このとき聖子は、
「もう今までのような仕事のやり方は終わりです…」と答えている。ただし、どちらの回答の際でも、
「家庭の事情が許すようになれば、また歌は歌いたい」と語っていた。これがそのまま現実となったのは周知の事実である。
 この時聖子が答えた「今までのような仕事のやり方は終わりです」というのは、シングル盤及びアルバムのリリース周期と、テレビ出演の露出度のことをさしている。たとえば、シングル盤の場合、1980年4月1日の「裸足の季節」から1985年5月9日の「ボーイの季節」まで21枚をリリースしているが、この期間から計算すると89日ごとにシングル盤をリリースしたことになる。つまり、約3ヶ月ごとのシングル盤リリースとなる。

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 このリリース間隔じたいは、当時のアイドル歌手のリリース頻度と比較してもごく平均的な周期で、当時はこの3か月ごとリリースがアイドル歌手には当たり前だった。特筆すべきは、ご存じのように「裸足の季節」の12位、「青い珊瑚礁」の2位を除けば、リリースされた21枚のうちの19枚がオリジナルコンフィデンスで1位となっていたことだ。番組出演時はまだ「ボーイの季節」はリリースされていないので、18枚連続1位が達成されていたが、19枚連続1位もほぼ確実視されていた。
 聖子はこのようなリリース頻度の高いシングル盤やアルバムの制作は、この後はもう不可能だと言ったのだ。このとき、まだ聖子は再度歌うことになるかどうかも、はっきり明言はしていない。インタビューの内容を精査してみると、どうやらこの時点ですでに再度歌を歌いたいという意思ははっきりと読み取れるのだが、その際に
「これまでのような仕事のやり方は終わりです」
と、明確に語っている。これは紛れもなく、従来のアイドル路線との決別宣言でもあった。

 また、その時点で結婚の影響で従来の人気が維持できているかも本人には予測は付いていないため、どのように「再デビュー」を果たすかの青写真はまだ描いてはいなかっただろう。現実には、結婚と出産を果たしたあともシングル盤の売り上げ1位は26枚目となる「旅立ちはフリージア」まで継続した。しかし、結婚前の「宣言」どおりに、リリース間隔は長くなり、テレビ露出度も減って、結婚前とは異なった「仕事」の状況になった。また、アメリカ進出で「仕事」の内容も多様化し、これまでよりも大人の部分を強調するようになっていく。
 まぁ、23歳で結婚して再度歌の世界に戻ってくる時には25歳頃、そのときにはアイドルでは通用しないという心づもりが聖子にはあっただろう。また、すでに23歳時点で大人のバラードが歌えるシンガーに成長しているという自負もあったから、従来のアイドル路線と決別する気持ちは固まっていたと思われる。

 いずれにしても、結婚前最後のテレビ出演で「これが松田聖子最後の出演か?」と思ってしまったファンも多かったことだろう。だが、実際の言い回しをよく聞いてみると、聖子はあくまで「家庭優先でこれからは仕事をしていく。今までのようなやり方はもうしない」と言い続けていた。これまでのような仕事はしない、というのは、事務所などの意向に沿ってアイドル路線をひた走るのはもう終わりにする、ということだったのだろう。

 幸か不幸か、結婚・出産を経ても彼女の人気は持続した。やがて、30歳を迎える頃から、彼女自身がこの持続した人気の呪縛に捕らわれるようになる……。
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松田聖子が妊娠中に出演したトーク番組と松田聖子がその21年後に「日々、過酷でした」と告白したトーク番組 [松田聖子の歴史を動画で振り返る]

 話がでたので、さんまの番組について続けてみよう。
 松田聖子は、1986年に妊娠した。その前の1985年に紅白に出演した後、テレビ番組には出演していなかったが、6月9日に「さんまのまんま」に出演している。この出演では、妊娠中であるため薄化粧で素顔に近いメイクで登場し、着ている服もゆったりとしたものを選んでいる。いかにも「妊娠中の若妻」という印象だ。
 この中で、聖子は「この番組に出たのは、家族あげて大喜びです」と語っている。また、さんまから
「どんな夫婦生活を営んでいらっしゃるのですか?」
「神田正輝さんは帰ってくるときどんな風にするんですか?」と聞かれて、聖子は
「だいたい、お台所にいることが多いから…」と答えた。
「帰ってきたら、エプロン姿で手をふきふきしながら、『はーい』とか言って……キス?」
聖子「うふふふ。はぁ(そうです)」(どうやらキスは否定せず、事実のようだ)
「お帰りなさい、って言うんです」
と答えている。

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 このあと、台所のセットで神田正輝が帰ってきたときの様子などが再現される。
 また、さんまが聖子のお腹をさすって「男の子」だと予言しているが、聖子はさんまに「女の子だったらどうされます?」と聞くと、さんまは「引き取ります」と答えてスタジオ内を笑わせている。
 聖子はこの出演の後にはお腹が大きくなって夏期は軽井沢での避暑などを行っているので、テレビ出演はないのではないかと思われる。

 そして前回述べた1991年正月の「エッチする…」を連発した出演後、この番組では16年間の空白が続いた。そして2007年夏に、松田聖子は4回目の登場となる。ここでの会話も、台本なしでかなりきわどいモノがあった。
 冒頭でさんまが
「私なんてバツ1ですよ…」というと、聖子は、
「私なんて、『2』ですよ。……『バツ2』ですよ」と言って、その発言の赤裸々さと微妙さから
「おほほー」と言いながらオーディエンスの方を向いてソファに笑いながら倒れ込んでしまう。

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 ここで「もう結婚はしないの?」と聞かれた聖子が、即答できずに言いよどんでいるとすかさずさんまは、
「(答えが)とまったねー」と茶かした。聖子は「違う」って苦笑いしながらオーディエンスの方に目線を向けた。
「もうこりごりでしょ。でも老後を考えたら、聖子さん、結婚した方がよいですよ」とさんまは語っている。
 その後3度目の結婚をしたけれど、このまま離婚しないで続いて欲しいけれども。

 話題はさんまがよくラジオなどでもネタにしている「週刊明星」の表紙になったときのことを語る。このとき、松田聖子はまだデビュー直後。さんまは芸人として初めて「週刊明星」の表紙を飾ることになり、デビュー仕立ての聖子と並んで写真撮影を行ったのだという。このときの撮影は葉山のホテルの庭で行われたという。
 さんまと聖子が表紙となったのは1980年8月24日号である。週刊誌は約1週間前に発売されるので、発売日は8月16日頃だろう。撮影日は7月下旬から8月上旬頃だったのではなかろうか。さんまは「これからものすごく伸びる人です」と聖子を紹介されたと言っているが、このとき「青い珊瑚礁」は7月1日にリリースされ、9月に1位になるべく躍進中だったはずだ。つまりまださんまは聖子をかけだしのアイドル歌手程度にしか認識していなかった。この後聖子があっという間にスターダムにのし上がり、さんまは驚いたと語っている。

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 この時の表紙、見てみるとなんだか松田聖子でないようなイメージで写っている。「これ、別人でないの?」と思ってしまうくらい、イメージが違う。しかし、トーク内では聖子が「葉山のホテルの庭で、撮影しましたね」と語っているし、関係者も否定していないから、これは松田聖子なんだろう。

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 話は進んで、さんまから「今、恋しているの?」と聞かれた聖子は、
「してないですね」と答えた。「ほんとに出会いがないんです、いつも同じメンバーでコンサートとかしているから」と語っている。
 ここで昔の話になり、さんまが
「オレにはいっぺんも寄りつかなかったね」と言うと、聖子は、
「そんなにご一緒する機会がなかったですよね」と言う。さんまは、
「あったよ、死ぬほどあったよ」と気色ばんで話す。
聖子は「でもほんとうに素敵な方でしたよね」と取って付けたように話すと、さんまは「おえー」と言ってソファに崩れかかった。聖子はまずいなという顔をしながら「あ、いや、今も素敵ですけど…その頃まぶしかった」と言いながら、かなり本気でフォローしていた。

 さんまは「オレはそんなこと言うてない、恋人として一度もなかったという話をしているの」と言う。聖子は、
「一度も誘ってくださらなかったではないですか」と話す。
「初めてデートしようかなと思ったときに、あなたには決まった男性がいたんですよ」(郷ひろみのことだろう)
聖子「いや、誘おうと思ってなかったでしょ」
さんま「…いや…」
聖子「絶対思ってない」(かなり力強く言う)
さんま「…いや…」
聖子「絶対思ってない!」(さらに力強く言う)
さんま「…絶対……」
聖子「絶対思ってない!!」(もっと力強く言う)
さんま「オレ、わかっていたもん、あのときに…」
聖子「え、なんですか?」(ちょっとイントネーションがおかしい)
さんま「元の恋人や、あのとき、恋人がいたでしょ」
聖子「…、は、はい」「え、な、なに、えーーっ」

 そして「そのときじゃないじゃないー、だって」(かなり本気の顔)
さんま「そのときですよぉ」
聖子「あ、今、ちょっとタメ口になっちゃった、ごめんなさい」と笑いながら語っている。
さんまは「やめてよー、あなたをこんなに大きくしたの、私だからね…」と冗談で言っている。
さんまは「電話番号でも聞こうかなと思った」
 聖子は顔をしかめながら「絶対思ってない!」
「そしたら、その元恋人から『いつもお世話になってます』って何かいただいたんですよ」
聖子「うっそー」とのけぞる。
 そんな本音できわどい会話が続いた。

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 このトークの冒頭なのだが、80年代初頭に報道されたスキャンダルの話になった。
さんま「いろんなスキャンダルを乗り越えてきて、まだテレビに出ているのは、すごいよね」
聖子「ははは…」
さんま「一時期、女性誌は、聖子、さんま、聖子、さんまで、スキャンダルをずーっと書かれてきた時期があったよね」
聖子「あー(そうですね)」
さんま「(そうやって)書かれてきたよね」
聖子は笑いながら「あーそうですね、あっという間に、年数がたちましたね」と話す。
さんまは「あれは30年くらいまえですからね、お互い独身で…」
聖子「ええ」
さんま「あなた、ほんとにすごいね。ずーっと笑っていたもんね」
聖子「でも、過酷ですよね、やっぱり。人生、過酷ですよ」
さんま「過酷だったけど、こんなに強い女だとは夢にも思わなかったよ」と語っている。

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 この内容は、「松田聖子の苦悩と悲しみ」の欄でも書いたが、聖子が当時置かれていた状況を如実に、しかも短い言葉で言い表している。聖子は、当時のスキャンダル報道で、痛めつけられていたのだ。それを「人生、過酷」だと表現した。20歳か21歳頃に、様々に言われ続けた報道に対して、彼女は傷付いていた。しかし、それに対して聖子は当時、何ら反論せずに笑っていた。いつも笑っていた。
 それをさんまは見ていた。「ずーっと笑っていたものね」と言う一言は、以前にも述べた聖子は「ただ明るく笑っていた」という事実に結びつく。何を言われようがただ笑っていた聖子に、さんまも感服して思うところがあったのだ。
 ほんの短い対話ではあったが、これはウソではないだろう。このトークの中で、唯一シリアスな一面を見せるやりとりだった。当時の聖子の苦しみが垣間見られる会話だった。
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